第四章 崩壞
第四章 崩壞
「從這裡出去的話、該做什麽?」
沒有回答。
「我想要好好的洗個澡呢」
沒有回答。
「但是、爸爸他們怎麽辦呢?」
沒有回答。
「已經睡了嗎?」
沒有回答。
「晚安」
還是沒有回答。

在眼睛閉上的時候、思考比平時更加活潑的在腦細胞中游盪。
在那期間、我思考了這些東西。
有人說人死亡的時候是輕鬆的。
也有人感嘆人的生命就如蟑螂般頑強。
どう贔屓《ひいき》目に判断しても、死ぬことの方が清く正しく潔いように思えてならない。
そして汚《きたな》く間違《まちが》いだらけで退《ひ》き際《どわ》を心得ない僕は、瞼《まぶた》をいつも通りに開いた。
死んだ両親が並んで目の前にいた。
……いや嘘《うそ》じゃなくて。
「お久しぶりです……」
おはようとどちらにすべきか迷い、そんな挨拶《あいさつ》をする。カラテカみたいに、両親の全身がくしゃくしゃに折れ曲がって頷《うなず》いた。そこでようやく、視界と脳味噌《のうみそ》が連結し、理解に至った。
つまり、
「夢オチだ」
「ダウト」
「正解」
新聞の切り抜《お》きが視界から取り除《のぞ》かれた。代わりに、白い天井《てんじょう》を背景にして恋日《こいび》先生が現れる。今日は銀縁《ぎんぶち》の眼鏡《めがね》をかけていた。先生に新聞とは、また似合わない取り合わせだ。
「悪趣味《あくしゅみ》ですね」
「自殺しようとしたバカには、これぐらいの冗談《じょうだん》は許容|範囲《はんい》」
冷めた物言いに、怒《いか》りが振《ふ》りかけてあった。未体験の態度に、どう振る舞《ま》うべきか躊躇《ためら》う。とにかく、寝《ね》たまま話をするのも失礼だろうと、起き上がってみることにした。
寝たきりだったためか、凝《こ》り固まっていた身体《からだ》、取り分け背中が痛んだものの、問題なく上半身は曲がった。周囲を見渡《わた》す必要もなく、消毒の匂《にお》いでここが病院だと知る。その、鼻腔《びこう》をざわめかせる香《かお》りは別に不快じゃない。初めて病院の世話になる以前、遥《はる》かに醜悪《しゅうあく》な臭《にお》いを体験していたから。
窓から差し込む真昼の日差しに目を焼かれながら、身体を一頻《ひとしき》り観察する。輸血用の管も、仰々《ぎょうぎょう》しく巻《ま》かれた包帯も見当たらない。格別に痛む箇所《かしょ》も存在せず、手首から先もあれば足の指もある。頭に血が不足している気がするだけで、後は普段の起床《きしょう》と何ら変わりがなかった。もしや改造手術でも受けたのかと、先生に説明を求める。そういえば、何故《なぜ》ここに先生がいるんだろう。謎《なぞ》だらけだ。
「……死んでないです、よね」
「君はアタシまで死んだと言いたいの?」
声に茨《いばら》が巻き付いている。聞く側としては心地良くないけど、特に対処法が思いつかないので普段《ふだん》通りに接することにした。
「僕の見ている死後の世界だから、周囲の人まで死の必要は……ま、死んではないか」
また死に損《そこ》なったのか。
「まさか本当に夢オチ?」
「間違《まちが》いなく夢じゃなくて現実に落ちたよ君は。デパートの屋上から飛び降りて、空中で回転して水平に下りて、雨宿り用の屋根をぶち破って白目|剥《む》いて泡噴《あわふ》いてバタンキュー。屋根が斜《なな》めで幸いだったわね、外傷一つなしよ」
「……わーお」
病院にいることが申し訳なくなる。
「体調は?」
髪《かみ》をざっと掻《か》さ上げながら、社交辞令のように尋《たず》ねてきた。大変良好ながら肩身《かたみ》が狭《せま》いことを告げると、先生は一度|頷《うなず》いた後、僕の胸元を掴《つか》み上げた。
「君は一体何を考えているの?」
くだらないことが九割を占《し》めています、と言える雰囲気《ふんいき》ではない。場を凌《しの》げる言葉を探す。
「えー、何というか」
「殴《なぐ》っていい?」
充血した瞳《ひとみ》が見据《す》えてくる。僕は首を斜めに振《ふ》った。
「なにそれ」
「個人的には殴られて当然とは思うんですけど、既《すで》にマユに殴られているのでこれ以上|唇《くちびる》を切りたくはないなあと思ったり」
ぐだぐだ言っているうちに頬《ほお》を叩《たた》かれた。
平手だった。
めちゃくちゃ痛かった。
未《いま》だ掴まれている胸元の手に引き寄せられ、がくがくと人形的に頭が揺《ゆ》れる。
そして先生が泣いた。
「はい?」
なんで?
頬が痺《しび》れてるのは僕なんだけど。
トゲでも生えてたのか?
粘《ねば》り気の強い汗《あせ》が膿《う》み出る。不快不可解。泣きながら顔を逸《そ》らさない。涙《なみだ》も拭《ふ》かない。待っているのか。窺《うかが》っているのか。沈黙《ちんもく》が、苦痛だ。
「泣いて、ますよ?」
およそ人間らしさの不足した台詞《せりふ》が、僕の精|一杯《いっぱい》だった。
ビンタが往復してくるかと、せめて醜態《しゅうたい》を晒《さら》さないように身構える。
けど、先生の反応は違《ちが》った。
自嘲《じちょう》に近い顔つきになり、首元の圧力を緩《ゆる》めてくる。
「私、泣いてる?」「いいえ」
咄嵯《とっさ》についた嘘《うそ》は無視された。先生の指が頬《ほお》をなぞる。感情の象徴《しょうちょう》である液体を拭《ふ》き取り、確かめるようにそれを舐《な》めた。
先生は喉《のど》を鳴らす。けど笑顔《えがお》とは程遠《はどとお》い。
「やっぱり、失格」
「シッカク?」
掴《つか》んでいた手が僕をそのまま押し飛ばした。受け身を取らず、斜《なな》めに倒《たお》れてベッドを軋《きし》ませる。すぐに体勢を戻《もど》しても展開に付いていけないだろうから、誰《だれ》かに引き揚《あ》げられるのを待ってみることにした。血が集《つど》い出したのか額が重い。頬《ほお》も痒《かゆ》い。
先生の言葉の続きを待つ。どんな罵倒《ばとう》が飛び出すだろう。狼狽《ろうばい》は避《さ》けられるように、今度は心を踏《ふ》ん張《ば》らせる。ふくろうみたいな鳥の鳴き声が屋外から無料配送されて、意識の表面に出来たささくれを取り除《のぞ》いてくれる。
準備が整う。
しかし、焦《じ》らされる。
三百、六百と秒数を計測し続け、頬を掻《か》き、額に手をやり、先生は既《すで》に病室から去ったのかと疑い、けれど身体《からだ》を持ち上げてそんなことの確認《かくにん》に目玉を労働させることも億劫《おっくう》だった。
規則的な鳥の歌や、天井《てんじょう》との睨《にら》めっこも飽《あ》きた。
よって不本意ながら、僕から話しかけた。
「僕はどれぐらい寝《ね》てました?」
「丸二日。身体に異常はないから心の問題だって医者が言ってた」
即答《そくとう》された。或《ある》いは、先生も僕の言葉を待っていたのかも。
「殺人事件はありました?」
「社会の出来事をアタシに聞かれても困る」
そうでした。
「屋根の修繕《しゅうぜん》費は?」
「御園《みその》が支払《しはら》った。いいとこのお嬢《じょう》様だからね、あの子」
「そのマユは?」
本命への返答には、若干《じゃっかん》のタイムラグがあった。
「寝てるんじゃないの、多分」
淡々《たんたん》とした返事は、予測から寸分|違《たが》わなかった。
「マユは、普段《ふだん》通りでしょう?」
重々しく顎《あご》が引かれるのを、目玉を限界まで酷使《こくし》して見届ける。
やっぱりねと納得《なっとく》がいく。
「壊死《えし》してますからね、大半の感情。一番|癖《くせ》のある妬《ねた》みが残ってるから、人間らしさは最底辺で留《とど》まってますけど」
僕が飛び降りた程度で、彼女は罪悪感を取り戻《もど》さない。
きっと、死んでも。
「御園《みその》を怒《おこ》らないの?」
「無い物ねだりはしませんよ」
マユに悲しさが残っていたら昔の時点で自殺を図っていただろう。
だから、これで良い。
最悪の中の最善だ。
「それに怒り方を忘れてるし……枯死《こし》してますから、心」
精神科の先生に心を語るなんて、分を弁《わきま》えない愚行《ぐこう》だったかな。
「死んでないよ。眠《ねむ》ってるだけ」
案の定、即座《そくざ》に否定された。
昔からの先生の主張。
心が死ぬってのはご臨終《りんじゅう》した時とイコールなの。どんな歪《ゆが》んでいようと心があるから生物でいられる。それが生物を形作る定義とアタシは信じてる。
幾度《いくど》も耳にした持論。それに、幾度も反論する。
「起きる見込みがないなら、死んでるのと一緒《いっしょ》じゃないですか」
この手の会話を始めると、いつだって先生はくだらないモノを見る目になる。それは主治医が息者《かんゃや》を診《み》る観察眼とはかけ離《はな》れた、愚者に苛立《いらだ》つ心情を体現しているようだった。
「人であることを嫌《きら》って、自覚的に放置してる奴《やつ》がよく言うよ。見込みがないなら自分で立てればいいじゃない」
喧嘩腰《けんかごし》で常套句《じょうとうく》を述べる。この問答も、お互《たが》い聞き飽《あ》きている。だから最近はこの初《しょ》っ端《ぱな》で切り上げ、続きは討論《とうろん》しないことが暗黙《あんもく》の了解《りょうかい》となっていた。今回も例に漏《も》れず、ここで話題を変えることになる。
喉《のど》に砂が張り付いたようにざらつき、乾《かわ》く。それでも口以外を働かせる気力はなく、思考の残骸《ざんがい》を唾棄《だき》した。
「仕事、サボってていいんですか?」
「昼間からそんなことしてられっか」
こんな人でも社会人として生活を営める日本は度量があるのか大雑把《おおざっぱ》なのか。
「つーか辞《や》めた」「はぁ?」
言葉で身体《からだ》をサルベージされた。脊髄《せきずい》君の指示に従って飛び起き、先生を見た。椅子《いす》の上で体育座りの姿勢を取り、足の指を観察していた。
「ちょ……えと、何故《なぜ》に?」
「向いてないスから」
バイトを辞《や》める若者だって今はもう少し殊勝《しゅしょう》な態度を取るだろうと思うぐらいにぞんざいな態度。涙《なみだ》の乾《かわ》いた頬《ほお》は本来の役目を果たすように、シニカルに歪《ゆが》む。
「アタシは天職に就《つ》いていて、これ以外の仕事に従事することなんてないと思ってたの?君にしては思い込みが激しいわね」
「いや、だって辞めたら先生が杜会的に先生じゃなくなって、けど僕にとってはやっぱり先生ですから複雑|怪奇《かいき》なわけです」
「なるほど、複雑だ」と先生が苦笑する。椅子の上の足を伸《の》ばし、僕のベッドに踵《かかと》を置いて橋を架《か》けた。
「仕事をしてた時は一日が八時間に思えたのに、今は二十四時間をちゃんと生きてる感じ。もー最高、辞めた甲斐《かい》があるね」
「……取り敢《あ》えず、『ちゃんと』と『ちゃんこ』間違《まちが》えてたりしてません?」
「ふん、社会の構成員として働くのが清く正しい人間のあるべき姿と言いたいわけね。枠組《わくぐ》みから外れたフリして、存外良い子ちゃんなんだから」
僕と干支《えと》が一回り違う妙齢《みょうれい》の女性は唇《くちびる》を尖《とが》らせ、子供染みた態度で不満を表す。ドンドンと駄々《だだ》をこねるように踵をベッドに打ち付け、それが時折僕の臑《すね》を捉《とら》える。マユ化が進んでますねと嫌味《いやみ》の一つでも零《こぼ》したくなる所行だ。
「ちゃんと引《ひ》き継《つ》ぎの先生はいるから、検診《けんしん》は心配しなくていいわよ」
独自のリズムまで付けてバンドのドラム担当と勘違《かんちが》いしてるような踵落としを決めてくる。
「はぁ」としか返せない。
「気のない返事ね」
「多分行きませんから……あ」
嘘《うそ》をつけばよかったと後悔《こうかい》が過《よぎ》る。
意地の悪い元女医は失言を見逃《のが》さない。目を光らせ、いじめっ子へと変貌《へんぼう》する。
「なんだなんだ、そんなにアタシが良いの?いやーん、うれぴー」
しなをつくるな。
「診療《しんりょう》に通ってたわけじゃないんで」
「ふーん、そっかそっか。アタシも、多少は医者としての意味を成せたわけだ」
にひひと歳《とし》不相応に笑う。悶《もだ》えるように足をばたつかせ、病院の規律を破壊《はかい》する騒音《そうおん》を立てる。同室の人に迷惑《めいわく》でしょうとたしなめようとして、もぬけの殻《から》であることに今更《いまさら》気付いた。
「おーおー、これが青春ドラマ的ってやつかね。医者になって良かったと辞めた後に思うわけ」
僕を辱《はずかし》めるためか、或《ある》いは本気か。先生はそんなことを言って、逆説的に医者をやっている間は良かったと思ったことなど何一つないことを伝えてくる。
自分にとってそうであると承知のうえでなのか、それとも。
「…………………………………」
好奇心《こうきしん》が心を跳《は》ねさせる。詮索《せんさく》しないという理性を抑《おさ》えて。
「なんで医者になったんですか?」
「お、ごまかしにかかってる」
「違《ちが》うっつーの」
「マジに聞きたいの?ドラマでもドキュメンタリーでもないわよ」
「歴史考証モノは嫌《きら》いじゃないので」
踵《きびす》の昇降《しょうこう》を停止し、先生が僕の顔を直視する。それから「ふむ」と一拍《いっぱく》置いて、話し始めた。
「アタシの家は先祖代々医者畑だったから、自然と進路は決まってた。魔王《まおう》を退治した勇者の子供が救世の勇者と期待されるのと原理は一緒《いっしょ》。で、精神科医だけがいなかったからアタシがなればなんつーか階級|制覇《せいは》じゃん、とかときめいた。人として当然そう思うわよね」
人であるための障害《しょうがい》を追加しないでほしい。
「正直なんでもよかった。仕事に夢や将来を託《たく》す気はなかったから。大体さ、アタシがどんなに頑張《がんば》ったって何にも残せないじゃん。世界どころか日本のミジンコみたいな村に対しても影《えい》響《きよう》を与《あた》えられるわけじゃないし。後は出来ることなんて、子孫を残すことだけど、アタシにはそれも叶《かな》わない」
結婚しないんですか、と聞こうとして飲み込んだ。
「つまりアタシには、生きた意味がない。客観的にみるとの話ね。人生は個人だろみたいな考え方もあるけど、アタシャそーいうのは好きじゃない。認めるより認められる方が価値がある。人は人の中で生きてるんだからね。……ま、話が逸《そ》れたけど、そーいう青|臭《くさ》い思想に基づいて、どんな仕事に就《つ》いても一緒《いっしょ》だよなノリで精神科医の坂下先生と相成りましたとさ」
めでたしめでたしはなかった。
……それでいいのか。まだ、終わったわけじゃないし。
先生は僕を引《ひ》っ叩《ぱた》いた右手の平を見つめ、指の開閉を繰《く》り返す。
「そんないい加減な志望動機にくわえて、手がね、出ちゃったわけだ。患者《かんじゃ》にビンタかましちやった。で、アタシは恥《はじ》知らずだけど恥|曝《さら》しを続けるほどに孤高《ここう》じゃないから、辞めました」
そう締《し》めくくり、背筋を反らして椅子《いす》の背もたれに一層重心をかけ、天井《てんじょう》を仰《あお》ぐ。
視聴者《しちょう》の声は求めていないようだ。僕も言うことはない。
「ねぇ、治療《ちりょう》ってなに?」
感情の稀薄《きはく》な声が鼓膜《こまく》を振動《しんどう》させた。
「……すいません、デジャビュが」
「聞いたわよ、前にも。素敵《すてき》に陳腐《ちんぷ》な四十点の解答が返ってきたわ」
あれ、僕の心の日記帳には百点を頂戴《ちょうだい》したと記載《きさい》されているぞ。
後頭部に両手を重ねて当て、伸《の》びをした後に先生が口を開く。
「身体《からだ》の治療《ちりょう》と心の治療。どちらが難しいかは知らないけど、どっちの方が曖昧《あいまい》かは一目瞭然《いもくりょうぜん》。大体、心の治療ってなにって話よ。喜怒哀楽《きどあいらく》を正常化すること?正常ってどういう定義?じゃあ心を以前の状態に戻《もど》せばいい?どういう配分で?回復の手助けをして自主性に任せる?本人にその気があるかも知らないのに?」
矢継《やつ》ぎ早に天井《てんじよう》に疑問をぶつける。まさか僕への質問じゃないだろう、と傍観《ぼうかん》していたら踵《かかと》を足首に投下してきた。しかも意見など言う暇《ひま》を与《あた》えずに続きを紡《つむ》ぐ。
「アタシのとこにいる入院|患者《かんじゃ》は、まともな奴《やつ》だっているよ。むしろ大半が普通《ふつう》。ちょっと無気力な人や、病的に規則を求める程度の、言ってみれば社会の何処《どこ》にでもいそうな人達ばっかり。けど、それだけでも異端《いたん》と見なされるのが世の常。疎《うと》まれて、それが嫌《いや》で自主入院する人だっている。……そんな中で、一割ぐらいかな、電波の送受信が完全に行われちゃってる人とか、妄想《もうそう》の世界に意識の基盤《きばん》をシフトしてる人とか。例えば、御園《みその》のまーちゃんとか」
僕の興味を惹《ひ》くようにその名前を挙げてきた。当然|釣《つ》られてしまう僕は先生を見るが、天井とのメンチ切りに忙《いそが》しいお方なので目線はかち合わない。
「あいつが感じてる幸せの背景は不幸色。けどどんなに周囲が不幸でも、ピントを幸せだけに合わせれば幸福。どれだけ幸福に満たされているように見えても、それを彩《いろど》る背景は不幸一色、さっきの話でいう主観と客観の差だろうけど、アタシから見れば不幸の塊《かたまり》の御園マユも、本人はみーくんが側《そば》にいれば幸せホクホクなんですって。こんなのがいればハッピーなんだから、あーら安上がり」
「……確かに安いですけどね」
こんなのは別段否定せずに相づちを打つ。本当にお気に入りなのだろうか。
「御園がもう一度入院して、改竄《かいざん》した記憶と健常から程遠《ほどとお》い精神を立て直しても、不幸な過去を取り戻《もど》すだけ。それと向き合って目を逸《そ》らさずに幸せをもう一度見つけてくださいなんて、上から物事を見てる人間の言い草。耐《た》えきれずに自殺を図る奴《やつ》だっているんだから。真実から目を背《そむ》けるな、なんて傲慢《ごうまん》な人間の押しつけに過ぎない。アタシは認めないね」
研《と》がれた声が意志を語る。
患者側にいるはずの僕の心には、少なくとも否定は生まれず、マユのことを思った。
先生はゆっくりと顔を下ろし、今度は自身の足の指先に目の焦点《しょうてん》を合わせる。
「ウチの病院には鏡の中の自分と一日中お話しする人や、予知能力を持ってるって吹聴《ふいちょう》する妄想症《もうそうしょう》の人もいるけどさ、アタシと比べてどっちが幸福かなんて分かりはしないのよ。アタシは具体性のある幸せなんて知らないけど、あの人達は知っているかも知れないし、体感しているのかも知れない。それは周囲に認められない幸せだけど、簡単に他人が奪《うば》えるものじゃない。だって、もし治ったからって幸福になれるとは限らないし、むしろ一度その状態にまでなった人は、周囲の評価がどうしても下がるから……とか悩《なや》んじゃってたのよね、ずっと」
苦悩《くのう》は過去形で表現される。
けどそれは、円満解決をしたわけではなく。
「延々と悩んで、でも答えが出ないならアタシは逃《に》げる。ヘタレだから。正直、このまま続けたらアタシの心も病みそうで怖《こわ》い。自分で培《つちか》い、行動の指針にしてきた真実が塗《ぬ》り替《か》えられそうで、恐《おそ》ろしい。向いてないから辞《や》めるなんてのは言い訳で、結局のところそーいう理由なのかもね」
てゆーか、そういう理由
そう言い終え、ようやく僕の顔を見た。
晴天の目が眩《まぶ》しい。奈月《なつき》さんと対《つい》を成すように瞳《ひとみ》が光に満ちている。
それは、かつて入院した際に見た人達の目と酷《こく》似している。
統合失調|症《しょう》の人の目と、似ている。
何処《どこ》で、彼らと彼女の目は評価の明暗を得ているのか。
乾《かわ》いて皮がめくれている唇《くちびる》が蠢《うごめ》く。
「你」
別有用意的停頓。
「你和御園在一起、幸福嗎?」
淡《あわ》い靄《もや》を視界にかけながら、掠《かす》れた声が出た。
「是啊」
僕は、嘘《うそ》をついたのだろうか。
先生は何も言ってくれない。ダウトでも正解でもない。
無視するように、顔を逸《そ》らされた。
それはつまり、仮に僕が真実幸福の最中であったとしても、
認められるモノではないと、いうことなのか。
「さてと。じゃ、アタシはそろそろ行くかな」
退《ひ》き際《ぎわ》を察したように踵《かかと》を上げる。
そして振《ふ》り下ろした足を軸《じく》に前転し、ベッドへ転がり込んできた。
脳味噌《のうみそ》が疑問|符《ふ》で一杯《いっぱい》になった。
そしてその群れを吐《は》き出す前に、先生のぶちかましを頂戴《ちょうだい》して僕はベッドから転がり落ちた。
「どーん」「うわぁー」なんて優《やさ》しい表現の介入《かいにゅう》する余地はなかった。
距離《きより》にして一メートル未満の、寝台《しんだい》から床《ゆか》への落下は、屋上から飛び降りた時より痛かった。
転がる際に床へ落ちた先生の眼鏡《めがね》をついでに拾い上げ、立ち上がる。患者《かんじゃ》用のベッドは、健康そのものな元社会人に大の字で占拠《せんきょ》されていた。
「……あのですね」
もっと遠くを目的地にしてください、と言葉を続ける気力が萎《しぼ》む。
先生は「いいじゃんかよ」と悪びれない。
「怪我《けが》なし病《やまい》なし健康|極《きわ》まりない奴《やつ》が病院のベッドで寝《ね》る必要ないでしょ」
何故《なぜ》この街の連中は(僕も含めて)我が身を振《ふ》り返るという行為《こうい》を実践《じっせん》しないんだ。
そう喚《わめ》き立てる気概《きがい》も湧《わ》かず、溜息《ためいき》一つを了承《りょうしょう》の合として、今まで先生が座っていたパイプ椅子《いす》に、打ちつけて痛む尻《しり》を下ろした。右手にあった眼鏡《めがね》を何気なく掛《か》けると、眼球に鈍痛《どんつう》が走った。
「どーせ帰ってもやることないしー」
「ハローワークが手招きしてますよ」
「なにそれ?寝太郎《ねたろう》は三年寝て六年|頑張《がんば》ったんでしょ。アタシは六年頑張ったから十二年休んでいいの、間違《まちが》いないわね」
「例えも勘定《かんじょう》も全《すべ》て間違ってます」
シリアスな空気が換気《かんき》されたことを受け入れ、額に垂《た》れた髪《かみ》を掻《か》き上げる。先生の話と僕の答えを頭の中でこねくり回したかったけど、保留するしかない。
道化者が、似合わない状態で呼吸していた所為《せい》か、肩《かた》が凝《こ》っている。ほぐすために両肩を回しながら先生を見ると、夢の棺桶《かんおけ》に片足|突《つ》っ込んでいた。本当に小マユ化しつつあるんじゃないかと危倶《きぐ》してしまう。視線に反応したのか目を擦《こす》り、伸《の》び伸びと欠伸《あくび》する。
「ひょふひへば、君の叔父《おじ》さんと叔母《おば》さんが怒《いか》り狂《くる》ってたから、頑張《がんば》ってね」
「あー……そうだよな、そうなるよな。頭いてー」
「それは困った、半分の優《やさ》しさでも処方してあげようかね、アハハハハハハハ!」
世界一幸せそうに馬鹿《ばか》笑いする先生の影響《えいきょう》を受けて、本当に頭が痛くなってきた。
「……先生、何でここにいるんです?」
「君は見舞《みま》いという言葉と、行為《こうい》を知らないのかしら?」
さも当然そうな先生の態度。その素っ気ない言い方と台詞《せりふ》は感動路線だったけど、患者《かんじゃ》のベッドで横になり欠伸をしながら行う見舞いなど僕は知らない。
「そういえば後で奈月《なつき》も来るって言ってたわね」
「うぇ」
露骨《ろこつ》にしかめ面をした。
そして先生は一目で分かるほど楽しそうに顔をほころばせた。
それから先生が本格的に寝息を立て始め(帰れよ)、独り思う。
生きていたからには。
「まあ、何というか機を逃《のが》したんですけど」
一応、お約束ってことで。
では。
「嘘《うそ》だけど」
僕は、生きていた。
そして翌日《よくじつ》、簡単な検査と叔父《おじ》夫婦|主催《しゅさい》の呪誼《じゅそ》めいた説教|視聴《しちょう》会に強制参加させられた後、右足を庇《かば》いながら現れたマユと再会した。聞くところによると先日、デパートの屋上から階段を下りる際、見事に段差を踏《ふ》み外して挫《くじ》いたらしい。それを聞いて、申し訳ないような、どうでもいいような濁《にご》った気分を内在させながら病院を後にした。
歩道には黄色の枯《か》れ葉《は》が積もっている。マユと暮らし始めた時の蒸《む》し暑さも、水に浸《ひた》るような冷涼《れいりょう》の空気に取って代わっている。病院の夜の冷え込みは、気付いた時には少なからず驚《おどろ》かされた。
長かった今年の残暑もようやく退場だ。それは直《じき》に檻《おり》の中へ入ることになる僕の、成人するまでに迎《むか》えられる外の夏が終わったということだ。名残《なごり》を惜《お》しむわけじゃないけど、一度くらい思い切り深呼吸しておくべきだったかと、僅《わず》かに後悔《こうかい》に似たものが過《よぎ》った。
さて、感傷に浸るのはここまでにして、いつもの僕に戻《もど》ろう。
「酷《ひど》いと思わない?」
「そうだねぇ」
一字一句、全《すべ》てを聞き漏《も》らしているマユの愚痴《ぐち》に、適当に相づちを打つ。
「あの嘘つき、わたしの顔を見たらいきなり叩《たた》いてきたんだよ。やり返そうとしたらすぐに逃《に》げるし。前から思ってたけどあの嘘つきは頭がおかしいよ。みーくんも会わない方が絶対いいよ」
「ふうん。……まーちゃんは、何か怒《おこ》られるようなことをした覚えはないの?なんか、生意気な態度を取っちゃったとか」
「全然」と、完全に否定する。
「そっか。じゃあ、まーちゃんは悪くないんだろうね」
落ち葉より薄《うす》っぺらで心ない同意。マユはそれでも、静かに顎《あご》を引いて嬉《うれ》しがる。
元より予定はないけど、僕は子を持たない方がいいな。甘やかしすぎてワガママ極《きわ》まりない馬鹿《ばか》人間を世に誕生《たんじょう》させることになる。そう痛感した。
「そういえば、修学旅行には行かなかったんだね」
先生についてマユに話をさせたくないので、話題を変える。クラスの皆《みな》が今頃《いまごろ》、熊本《くまもと》のサービスエリアだの長崎《ながさき》のサービスエリアだので楽しくやっている旅行にマユは参加せず、ここにいる。誰《だれ》のためか定かではないけど、僕がノーロープバンジーを敢行《かんこう》ぜずに旅行者の一員となっていたら、マユも来たのだろうか。
「だってみーくんが行かないから」
当然でしょ?と暗に告げる確固とした言葉だった。
……必要とは、されているわけだ。
なら、今はいいか。
先生なら怒《おこ》るのだろうけど。
「だから、今度二人で旅行に行きたいの」
「うん、そのうちね」
機会がないことは確定しているのに、平気な顔をして約束する。
面白味のない虚言《きょげん》だ。
現実味というものに溢《あふ》れすぎた毎日を嘘《うそ》で艶《つや》やかに彩《いろど》るのがフィクションなのに。
落葉を踏《ふ》んで歩く。
嘘を吐《は》き出しながら、生き続ける。
マユの家に戻《もど》ってきた。
居間に入る。
そういえば、あの子達はどうしていたんだろう。干《ひ》からびてないだろうな。
「まーちゃん、お昼ご飯作ってくれる?」
「うん、いいよ!」
マユを台所に行かせて、早足で奥へ向かって襖《ふすま》をスライドさせた。
三日|離《はな》れて、慣れが薄《うす》れたのか悪臭《あくしゅう》が鼻と目に染《し》みる。
「あ……」
身を寄せ合っていた少年少女の合わせて四つ、無垢《むく》の光を湛《たた》える目が僕を見上げた。
救いを見るようなその眼差《まなざ》しに、たじろぎそうになる。
襖を掴《つか》んで身体《からだ》を支え、目を背《そむ》けたくなる衝動《しょうどう》に抵抗《ていこう》して明るい声をあげる。
「いやー朝帰りどころか外泊《がいはく》までして奥さんに」「お帰りなさい!」
僕が襖を開ける勢いより強い挨拶《あいさつ》をされた。
足|枷《かせ》を限界まで引っ張り、足下《あしもと》に二人が近寄ってくる。
「ねぇ、どうしたの?ちっとも部屋に来てくれなかったけど」
足首を掴む杏子《あんず》ちゃんは後一押しで鳴咽《おえつ》を漏《も》らしそうで、涙腺《るいせん》が危《あや》うい。や、止《や》めろよう。おどおど。似合わないのでそれ以上は妄想《もうそう》しなかった。
「んー、部屋に来なかったというか、ここにいなかったんだな」
どうどう、と二人をなだめながらその場で腰《こし》を下ろす。そして尻《しり》を下ろすや否《いな》や、二人に飛びかかられた。一瞬《いっしゅん》、意識が切れた。
油断した?このまま、首を……などと警戒《けいかい》した時点で、人間失格のそしりを免《まぬが》れない。
ただ抱きつかれただけだった。
正面から堂々と、二人は垢《あか》だらけの頬《ほお》を胸に擦《こす》らせてくる。
「……………………………………」
この場面をぶち壊《こわ》したくないから、言わないけどさ。
もの凄《すご》く、不快な臭《にお》い。
どぶ川に納豆《なっとう》を氾濫《はんらん》させたような、絶望的な臭い。
鳥肌《とりはだ》だけは隠《かく》しようがない。
「なななんだいキミタチ、ワタシは食べてもオイシクナイゼ」
「だ、だって出てっちゃったのかなって……」
照れ顔の杏子《あんず》ちゃん。健全な妹を持った錯覚《さっかく》。
媚《こ》びるような上目遣《うわめづか》いで僕を見上げる浩太《こうた》君。
「どこ、行ってたんですか?」
新妻《にいづま》みたいなこと聞くんじゃねぇ!
心の内で堰《せ》き止めておいた。
「それはまた後で話すとして……」
好ましくない空気で深呼吸を実行して、肺を汚《けが》す。
さて。
「ご飯は貰《もら》えてた?」
「はい。普通《ふつう》に美味《おい》しくいただきました」
「なんかね、みーくんに怒《おこ》られたくないし、ってぶつぶつ言ってた」
杏子ちゃんの声|真似《まね》は似ていた。やはり精神|年齢《ねんれい》の近い者同士、波長が合うのかも。
けど、僕って誰《だれ》かを怒ったこと、あったか?
優《やさ》しさや温情といったものを滅多《めった》に持たないけど、それに応じて負の感情も凍結《とうけつ》している。怒ることも妬《ねた》むことも無縁《むえん》になっている。
普通の人が工芸品ならプラスチック製品に該当《がいとう》する自分が嫌《きら》いじゃなかったりする。
……ちゅーとはんぱだけどさ。
「ねぇ、みーくんって、えっと……」
「うん、僕のことだよ」
杏子ちゃんが僕をこいつ呼ばわりせず、迷《まよ》ってくれていたので助け船を出す。
杏子ちゃんは程《ほど》良く軟化《なんか》した表情で、「そっか、『み』がつくんだ」と納得してくれた。
「ふぅん、みーくん……みーくん」
みーくんを舌《した》の上で転がし、賞味している杏子《あんず》ちゃんを眺《なが》めながら、一度深呼吸した。
「とにかくこれで、懸念《けねん》は一つ消えたと」
残るは、もう一つ。
この空気の緩《ゆる》い誘拐《ゆうかい》事件に了《りょう》を添《そ》える為《ため》の手段。
この子達を『何とか』して、事件を『どうにか』して、マユをただの女子高生にすること。
寝惚《ねぼ》けていた頭のリハビリを兼《か》ねて、一つ真剣《しんけん》に悩《なや》んでみる。
悩む。
思考の欠片《かけら》が溢《あふ》れかえり、幻視《げんし》を目撃《もくげき》しそうなほど頭を使う。
脳|細胞《さいぼう》が沸《わ》き立ちそうなほど、熱が額を中心に頭部へ集《つど》う。
その最中、デパートの屋上で辿《たど》り着いた解決法をふと思い返す。
家出と、殺人と、誘拐《ゆうかい》。
自由落下した際に手放していた閃《ひらめ》きを手繰《たぐ》り寄せて、反芻《はんすう》し、二人を眺める。
「………………………………………」
「あの、おにいさん?眉間《みけん》にすごく皺《しわ》寄ってますよ」
人を物として利用するのは最上級に人でなしだと、大概《たいがい》は思うのかも知れない。
じゃあ、大切な誰《だれ》かを助ける過程で他《ほか》の誰かを道具|扱《あつか》いすることは、そんなに駄目《だめ》なのか。
僕は自分の為《ため》に、マユを最優先したい。
……所以我、決定要『利用』這兩個孩子。
肩《かた》と眉間を解放して、大きく、長く、濁《にご》った息を投棄《とうき》する。
そうして、空になった体内に残ったのは、後ろ向きな決意。
失ってやる。
失わせる為に、尽力《じんりょく》してやる。
對誘拐犯和被誘拐的人和殺人犯和被殺的人和去殺人的人。
預先準備『卜』
退院した翌日《よくじつ》、有給|休暇《きゅうか》の身の上を活用し、朝から外出して所用をこなしてきた。その際に壁《かべ》をよじ登ったり監視《かんし》の目をくぐり抜《ぬ》けての人工物アスレチック、またの名を忍者《にんじゃ》ごっこする羽目になり、二度|寝《ね》を要求する疲労困憊《ひろうこんぱい》の身体《からだ》を引きずってマンションに帰還《きかん》した。
部屋には物音一つない。マユは言うまでもなく、浩太《こうた》君達も僕と深夜まで遊んでいたからまだ夢に浸《ひた》っている。
テレビを点《つ》けてソファで横に倒《たお》れ、いつの間にか僕の意識も陥落《かんらく》された。
その最中、滅多《めった》に見ない夢で謎《なぞ》のババ様と話して自身の幸せを悟《さと》ったけど、昼に起きたら忘れた。
この日はそのまま、半日ぐらいしか活動しない理想的な休日を送った。
明日は本番なので、今日はこれでいい。
更《さら》に翌日。前日の睡眠《すいみん》過多が祟《たた》って、起床《きしょう》時から頭痛に苛《いじ》められる。
今日は今年で一番|忙《いそが》しい日になるのに、身体が気怠《けだる》い。
「……ま、平気か」
疲弊《ひへい》を心が感じないようにすればいい。腐《くさ》った死体ではなく、泥《どろ》人形になるということ。
簡単すぎて、反吐《へど》よりは涙《なみだ》が出そうだった。
だから(全く繋《つな》がってないけど)今日から再開される授業も、休むことにした。
起き抜《ぬ》けに、マユが惰眠《だみん》を貪《むさぼ》る寝室《しんしつ》を物色する。机の引き出し、クローゼットのダンボール箱を総当たりで探索《たんさく》する。探偵《たんてい》志望の女性に一任したいほど、億劫《おっくう》な作業だ。
それから一時聞ほどの家捜《やさが》しで、お目当ての道具を発見した。足|枷《かせ》の鍵《かぎ》だ。それが玄関《げんかん》の下駄《げた》箱に置いてあった理由は、素人《しろうと》には推理《すいり》不可能なので黙殺《もくさつ》した。
鍵を確かめに浩太君達の部屋を訪れる。二人は既《すで》に起きて、手垢《てあか》を付けすぎた借り物の漫画《まんが》を読んでいた。僕が入ってきたので、その手を休めて挨拶《あいさつ》をする。
「おはよう、おにいちゃん」
「……ふうむ」
呼ばれても感慨《かんがい》はないものだ。
二人の前で屈《かが》み、浩太君の足に装飾《そうしょく》されている手錠《てじょう》型の足枷に鍵を通す。鍵穴に綺麗《きれい》に差し込まれ、一捻《ひとひね》り。手応《てごた》えありだ。足首が枷から解放された。本当にこれで、誘拐《ゆうかい》の被害《ひがい》者はこの場所に繋《つな》がれている要素がなくなった。
「え……あの、おにいさん?」
「今はまだ。けど夜には外すよ」
鍵《かぎ》をかけ直し、二人の顔を見なかったことにして、声を聞かなかったことにして部屋を出た。
カーテンの閉じられた寝室《しんしつ》に行き、ベッドではなく床《ゆか》に座り込んでマユの目覚めを待った。
同日午後九時、僕とマユはベッドに寝《ね》そべっている。
マユは珍《めずら》しくまだ意識を保ち、お互《たが》いにぐてーっとしている。
手持ちぶさたなので、マユの髪《かみ》を指で掻《か》き分け、耳を面に晒《さら》して耳たぶを摘《つま》んでみる。うわ、耳が微弱《びじゃく》に羽ばたいた。
マユは未《いま》だに寝間着で、これから風呂《ふろ》に入って次の寝間着に着替《きが》えるのだろう。
異常である故《ゆえ》に成り立つ無垢《むく》な瞳《ひとみ》を伴《ともな》って、マユが僕に問いかけてきた。
「みーくんは年増《としま》が好きなの?」
モチロンサ!と歯を光らせて親指を立ててほしいのか。
「あの嘘《うそ》つきと仲良いもん。あんな頭のおかしい奴《やつ》と仲が良いんだから、年増が好きってことぐらいしかまーちゃんは推理《すいり》出来ません」
先生が聞いたら不殺の誓《ちか》いを立てていても破る最悪の言い分だ。
「綺麗《きれい》なお姉さんは好きだけど、熟女《じゅくじょ》好きってわけじゃ……」
「早く歳《とし》取りたーい」
先生が聞いたら丑三《うしみ》つ時に神杜の裏手を俳徊《はいかい》し出す願望を口走った。
「わたしはどうしてみーくんと同い年なのかなー。どうして若いのかなー、どうしてマユなのかなー、どうしてわたしなのかな………?わたしは、私?んん、んんー?」
哲学《てつがく》な問いかけを童謡《どうよう》みたいに詠《よ》み上げていたマユが突然《とつぜん》、眉根《まゆね》を寄せる。目が左に寄り、自分の内面を覗《のぞ》くように遠い目になる。険しく、細い目だ。問題が高度すぎてエラーが発生したのとは次元が異なるらしい。枕《まくら》に横顔を突《つ》っ伏《ぷ》して、頬《ほお》の肉が寄っていること以外は、無縁《むえん》だった理性を感じさせる。
「むー……ぎー、がーー」
生真面目《きまじめ》に奇声《きせい》をあげている。た、叩《たた》けば直るかな。でも噛《か》まれたらどうしよう。
腰《こし》を引かせながら、電波に苛《さいな》まれるマユを見届ける。
マユは五分ぐらい、苦悩《くのう》と奇声を撒《ま》き散らし、やがて憑《つ》き物が祓《はら》われたように動かなくなり、枕に顔を埋《うず》めた。ひょっとして、今のは一般に知られざる儀式《ぎしき》の類《たぐい》ですか?
ぐるりと、四面をずらしたように顔を横に向け、マユが僕を見据《す》えた。
「道君」
「怎麽了」
「我啊、討厭自己」
抑揚《よくよう》の幅《はば》が狭《せま》い口調だった。教室の御園《みその》マユと二人きりのまーちゃんが混じり合ったような態度に、何故《なぜ》かざらついたものを感じる。
「……什麽啊、突然這麽說」
マユは意味と感情のない顔を作成する。
「雖然我也不知道、不過現在就是這麽想」
「……嗯。不過我喜歡哦」
自己嗎?麻由嗎?我到底指的是什麽呢?還是說,是謊言呢?
真意などどうでもよく、お茶を濁《にご》せればいい。
「爲什麽我會討厭我自己呢?道君知道嗎?」
効果はなかった。マユの目が答えを求めて揺《ゆ》れる。
「是爲什麽?我不討厭小麻所以不清楚」
大嘘の返事をした。マユはふうん、と生返事《なまへんじ》をして顔を逆方向へ反転させる。
髪《かみ》が流れ、はだけた肩《かた》を薄《うす》く覆《おお》う。マユの肩は、腕《うで》と異なり傷痕《きずあと》が見当たらない。塩湖《えんこ》のように眩《まぶ》しく、冷たい印象を抱《いだ》かせる白一色。指の腹で押せば、割れてしまいそうなほど。
マユを抱《だ》き寄せる。決して大柄《おおがら》ではない僕の腕の中に、小さな体躯《たいく》は軽々と収まる。
「呐」と声をかけると、転がってこちらを向き、にへらと締《し》まりのない笑い。
「怎麽了的說ー?啾ー?」
啊、恢復了啊。正好。
「小麻、喜歡我嗎?」
マユは、微睡《まどろ》むように曖昧《あいまい》に微笑《ほほえ》んで頷《うなず》いた。
「道君的話、我最喜歡了喲」
「是哦。嗯、是這樣哦」
ちきしょい、感動で目から煮汁《にじる》(涙《なみだ》の代理)が溢《あふ》れそうだぜ。
「道君呢?」
胸元で丸くなりながら、マユが尋《たず》ね返してきた。考えるまでもない。『隣《となり》のクラスの小口さん素敵《すてき》だね』と意地悪を言う必要が何処《どこ》にあるというのだ脊髄《せきずい》。
「喜歡哦」
「誒ー、不是最喜歡嗎ー?」
「喜歡到死的程度」
「啊ー、我也是呢!」
屈託《くったく》なく微笑む。どちらかというとまーちゃんは、殺じたくなるほど好きって感じだね。
「ねえみーきゅん」
降格か昇格か微妙《びみょう》なうえに、屈辱《くつじょく》的な名称《めいしょう》で呼ばれた。負けじと対抗《たいこう》する。
「なんだいまーたん」
言ってから羞恥《しゅうち》に突《つ》き動かされて遺書《いしょ》の準備に取りかかりそうになった。
マユが僕に擦《す》り寄る。同化でもする気なのか、身体《からだ》を密着させてくる。鎖骨《さこつ》にかかる吐息《といき》がくすぐったい。
マユの唇《くちびる》が開かれるのを、肌《はだ》で感じ取る。
「笑って」
「……んー」
その件につきましては事の重大性について重々承知のうえで考慮《こうりょ》と熟慮《じゅくりょ》の検討を重ねておりまして、つまるところ現在、案件に対して相違《そうい》する意識との会合を設けて早急な結論を出そうと早い話出来もしないのにノーと言えない日本人気質が邪魔《じゃま》して「幸せなら、笑って」
「……な」
喉《のど》と脳味噌《のうみそ》と胸を同時に締《し》め上げられる。
御園《みその》マユが、幸せを尋《たず》ねてきた。
あの人から連鎖《れんさ》するように。
運命級の嫌《いや》がらせだ。
眼球が千切れ落ちそうなほど奥で引きつり、焦燥《しようそう》で焦《こ》げる。
窓の外の景色《けしき》が、病室から覗《のぞ》いたものと混ざり、滲《にじ》んだ水彩《すいさい》画のような異世界へ変異する。
「わたしはー、こうしてるとすっごくほんわかして、みーくんの匂《にお》いがして、しあわせー」
間延びした語尾。目をしきりに瞬《まばた》かせ、欠伸《あくび》の涙《なみだ》を流す。マユの意識が夢と溶《と》け合い、境界線を失っている。
「うー、なんか眠《ねむ》い……」
僕は、この子と過ごす時間に何を覚えていたんだろう。
「寝《ね》ちゃいなよ。やっぱまーちゃんは寝てる方がそれらしいよ」
心がニートな僕には、与《あた》えられた感情らしきものを分別して吐露《とろ》することは出来ない。
「でもー、まーちゃん子供じゃないから、夜更かしする……」
「そういうことを言っちゃうのが子供だと思うよ」
山積みにして放置してある、心を埋《う》め尽《つ》くす想《おも》いのジャンクは喜怒哀楽《きどあいらく》のどれに際立《きわだ》っているというのか。
「むー、子供扱《あつか》い……」
自分以外の誰《だれ》が、それを識別することが出来るというのか。
「はい、夢の世界に旅立っておいで」
……分かる、今ならきっと分かるけど。
僕は、答えを出すことを、先送りにする。
どうせすぐ先に、牢獄《ろうごく》の時間が待っているんだ。
「ねー、にっこりしてよー」
「……ああ、うん」
鏡の前ではないから、成否《せいひ》は掴《つか》めない。
マユは目を開けず、そのまま意識を途絶《とだ》えさせた。
幸も不幸もないような、当然の寝顔《ねがお》。
この状況《じょうきょう》を当然として、日常として受け入れていた。
「……さて」
睡眠《すいみん》薬をこの子に使うことは恐《おそ》らく、今がただ一度の機会となるだろう。お茶に一服盛るという行為《こうい》は他《ほか》に類のない刺激《しげき》があり、癖《くせ》になる人がいても不思議じゃないというのが感想だ。かつての毒殺を仕掛《しか》けた下手人は内心、病みつきになっていたのではと推測《すいそく》する。
マユを転がしてシーツで簀巻《すま》きにする。白い春巻きに仕立て上げ、一仕事を終えてからベッドを下りる。
すぐには移動せず、彼女の寝顔を眺《なが》める。
ジッと見て、海馬《かいば》に焼き付ける。
思い出になるように。
「……嘘《うそ》つきでごめん」
もっとも心が籠《こ》められる挨拶《あいさつ》を告げる。
部屋を出て、扉《とびら》を閉じた。
薄暗《うすぐら》いリビングを通過し、予告通り枷《かせ》を取り外しに奥の部屋へ入る。
二人の、身体《からだ》とは裏腹に汚《よご》れていない瞳《ひとみ》が瞼《まぶた》を押し退《の》けて大きく露出《ろしゅつ》し、僕の行いに疑問をぶつけてくる。二人を自由にした後、立ち上がってからそれに独白めいた言い方で答えた。
「帰るんだよ、君達の家に」
そして、終わらせる。
まず、深い意味はないけど垢《あか》を洗い落としてもらうことにした。
「はい、バスタオル。君達の服は今|洗濯《せんたく》してるから、風呂《ふろ》からあがったらこのシャツでも着て待ってて」
手早く、浩太《こうた》君に着替《きが》えとタオルを渡《わた》す。二人は僕の行動に納得《なっとく》いかないのか、しきりに首を傾《かし》げている。
「あの、おにいさん。ぼくたち、えっと」
「なんだ、一緒《いっしょ》に入るのが恥《は》ずかしいとか?兄妹《きょうだい》は六|歳《さい》から十二歳までは一緒に風呂へ入ることが許されるんだ。胸を張れ」
まくし立てるように早口で打ち切り、二人をバスルームへ向かわせる。振《ふ》り向いて立ち止まろうとする二人の背中を押して風呂《ふろ》場に放《ほう》り込み、「一時間以内によろしく」と告げて扉《とびら》を閉めた。
「ちょっとー!話聞きなさいよ!」
「ことわーる。頭を冷やしてから来い」
「これ、お風呂ですよー!」
漫才《まんざい》をしている場合ではないというのに。
二人を浴場に閉じこめてから、玄関《げんかん》とリビングを繋《つな》ぐ短い廊下《ろうか》で座り込んでいた。
灯《あか》りは点《つ》けず、暗闇《くらやみ》に尻《しり》を付け、黒い空間を吸い込む。それだけで、高ぶっていた心が静まる。煙草《たばこ》を吸うのは、こんな感じなのだろうか。
瞼《まぶた》の開閉を不規則に繰《く》り返し、内側の闇と、周囲を取り巻く暗がりの僅《わず》かな差異を楽しむ。外より、瞼の裏側の方が黒色が濃《こ》い。それは当たり前のことかも知れなかったけど、自分を表すのに都合がいい気がした。
やがて目が慣れて、二つの闇が質を大きく違《ちが》える。そうなると味気ないので目を閉じ、噛《か》み尽《つ》くしたガムを吐《は》き出すように外の世界を瞳《ひとみ》から追い出した。
閉ざされた視覚を補うために、触感《しょっかん》が内外間わず鋭敏《えいびん》になる。
床《ゆか》の冷たさ。空気の素っ気なさ。ひりつく喉《のど》。
「…………………………」
回想が自動的に起動された。
極々《ごくごく》|平凡《へいぼん》な家庭に生まれた。家は田舎《いなか》の土地持ちで無駄《むだ》に敷地《しきち》が広い。酔《よ》っ払《ぱら》った父親がよく一緒《いっしょ》に飲んでいた酔いどれ爺《じじい》を泊《と》まらせに連れてきていたが部屋はいつだって余裕《よゆう》があった。二階建てでB1まである。そんな家での五人家族の暮らし。兄は二つ年上で子供の頃《ころ》から髪《かみ》を金色に染めていた。派手な外見ながら外では遊ばず本の虫で蔵書を収めた部屋に布団《ふとん》を置いていた。彼が食卓で本の内容以外の話をしたことはない。妹は四つ年下で僕たちとは母親が異なる。癇癪《かんしゃく》が酷《ひど》かった為《ため》に家族内でいつも煙《けな》たがられていた。お守《も》りはほとんど僕がこなしてその返事は暴力が大半だった。彼女に一度も笑顔《えがお》を向けられたことはない。母親は二人。最初の母は僕を産んでから三年後に死んだ。理由は覚えていない。ただ顔が背中を向いて横たわっていた母親の姿を朧気《おぼろげ》に記憶《きおく》している。腕《うで》と足の関節も不自然に追加されていたはずだ。それから二年後にお腹《なか》を大きくした女性が家で暮らすようになった。式も挙げずに婚姻《こんいん》だけした女性は三ヶ月後に妹を産んだ。兄は妹と妹の母親には一言も口を利《き》かず段々と孤立《こりつ》していった。そして夏休みを控《ひか》えた終業式の最中に体育館の天井《てんじょう》から飛び降り自殺を果たした。葬式《そうしき》には僕と父しか参加しなかった。妹と妹の母親は気兼《きが》ねなく家で暮らし始めた。兄が死んだ時に五|歳《さい》を迎《むか》えた妹は毎日外へ遊びに行って泥《どろ》と土と擦《す》り傷にまみれて帰ってきた。妹は山の動物を殺す遊びに熱中していた。そしてある日を境に帰ってこなかった。僕と妹の母親だけで供養《くよう》した。そうして家には僕と父親と妹の母親だけになり、
八年後には、僕だけが残った。
「嘘《うそ》だけど」
いつもの虚言《きょげん》です。この文章は全《ずべ》てフィクションです。如何《いか》なる現実とも関係御座いませんことは明確です。真に受けないように。
「……嘘だけど」
嘘を正す嘘をつくのは、良い気分じゃない。
けど、嘘に出来ないことだってある。
たとえ本人が改竄《かいざん》し、でっち上げの真実を尊んでいたとしても。
当事者からすれば、ただの大嘘である。
例えば、彼女と僕。
「私ね、自分が嫌《きら》い」
口調を気持ち悪く真似《まね》てみた。本当に、気味が悪い。
「そうだろうね、御園《みその》マユ」
なにせ、自分が嫌いなものが、自分自身であるのだから。
御園マユは人殺しだ。
かつての誘拐《ゆうかい》事件を、犯人その他を殺人事件して解決したのがマユだ。
最初は、自分の両親。
誘拐犯のオヤジはどうしてあんな行いに出たのか。いや、それは誘拐という狂行《きょうこう》に踏《ふ》み切ったところから、本人以外には理解不能なんだろう。ただ、僕は一つだけ、そんな犯人を見て理解したことがある。
人間が最高に物事を楽しんでる時の笑顔《えがお》は、醜悪《しゅうあく》の一言に尽《つ》きるものだと。
一年近く監禁《かんきん》が続いていれば、人を傷つけることが前提の遊戯《ゆうぎ》なんて一通りやり尽《つ》くしてしまう。飽《あ》きていたのかも知れない。で、皮肉にも犯人とマユのご両親は仲良しさんだった。感情が壊死《えし》寸前のマユをもっと遊び尽《つ》くすのに、丁度良い刺激剤《しげきざい》になると、犯人は思ったんじゃないだろうか。
人の良いご両親を自宅に招き入れ、身柄《みがら》を確保。そして、誘拐犯はマユに両親を殺すように強制した。そうしなければ、僕とマユの両方を殺すと脅《おど》して。久方ぶりに感情を高ぶらせたマユは当然のように泣いて嫌《いや》がった。その期待通りの反応に犯人は大層|興奮《こうふん》していた。けど十秒で鬱陶《うっとう》しくなったのか、マユの腫《は》れ上がった顔面を思い切り蹴《け》り飛ばした挙げ句、用意していた肉切り包丁で太股《ふともも》を赤く切り裂《さ》いた。マユ本人より、両親の悲鳴の方が僕の耳には響《ひび》いた。
復活してしまった感情は痛みの意味を思い出し、マユには犯人の指示を全《まっと》うするしか保身の方法がなかった。そして、そのあたりで僕は目を覆《おお》い隠《かく》された。誘拐《ゆうかい》犯の妻の良心に基づいて。見ちゃ駄目《だめ》だって。だけどその覆いは不完全で、指の隙間《すきま》からその光景がうっすらと覗《のぞ》けてしまった。それを指摘《してき》する唇《くちびる》と歯は震《ふる》えて、使い物にならなかった。
誘拐犯が、身体《からだ》の部位を下劣《げれつ》な声で叫《さけ》ぶ。そうすると、一拍《いっぱく》置いて悲鳴と、鈍《にぶ》い音が重なって聞こえてくる。そして、目を覆わなければ心がどうにかなってしまいそうな、非現実な包丁の使われ方。それから目を逸《そ》らすことも、瞑《つぶ》る余裕《よゆう》さえも僕からは失せていた。
僕まで叫び出しそうなぐらいに恐怖《きょうふ》にかられて、だけどうるさかったらこっちも殺されてしまうかと思って、必死に堪《こら》えた。下唇が千切れそうなほど前歯を食い込ませて、両手で耳を塞《ふさ》いだ。それでも、響《ひび》きが減っただけで音を完全に遮断《しゃだん》することは出来なかった。唇から流れてくる血の味にも恐《おそ》れを抱《いだ》いた。
そして、複数の悲鳴と、最後に聞き慣れた醜《みにく》く野太い声がして、音が一旦止《いったんや》んだ。
全《すべ》ての音が止んだ時、効果を果たせていない目の覆いが取れた先にあったものは、床《ゆか》に倒《たお》れ伏《ふ》した誘拐犯共、原形を留《とど》めていないマユの両親、そして液体を身体と包丁から滴《したた》らせた猫背《ねこぜ》のマユ、計五名の姿だった。
どうしてそんな景色《けしき》が広がっているのか、僕は目で見て耳で聞き取っていたのに、理解することを心が頑《かたく》なに拒否《きょひ》した。
マユが、殺人という手段で事件を終わらせた。
それをマユは覚えていない。
僕に刃《やいば》を向けたことも。
「……どうして死ななかったんだろうね、僕は」
僕は反則で生き残った。庇《かば》い、助けてもらったのだ。
誘拐犯の妻に、だ。
「……………………………………」
自分のために僕の身代わりとなった人。
自分のために僕を傷つけた人。
そして自分のために、自分を偽《いつわ》る人。
「みんなみんな、死にました」
僕の目の前で。
どいつもこいつも何かを噴《ふ》き出して。
血とか涙《なみだ》とか心とか。
そして何事もなく僕は生きている。
めでたしめでたし。
「……………………………………」
活《い》かされ続けている。
他者の悪意に襲《おそ》われ、別の人間に庇《かば》われ、呪《のろ》われ、生き続けている。
何の価値もない生き方で。
僕はいつだって道化を演じようとする。
対話を茶化し、哲学《てつがく》をあざ笑う。
そうして、自分が現実を一つでも多く知り、世界を上位の視点から見下ろしているように、思わせようと躍起《やっき》になっている。
余裕《よゆう》を傍《かたわ》らに控《ひか》えさせているように、暗示をかける。
そんな生き方を、ずっと続けてきた。
一度でも、人に致命《ちめい》的な恐怖《きょうふ》を抱《いだ》いた時から。
「……怖《こわ》いよ」
僕は人が怖い。
黒い部分に触《ふ》れすぎて、同族に恐怖を抱いた。
当然、怖いものは嫌《きら》い。
だから僕は人が嫌いだし、自分も人である以上はその対象だけど、それじゃ生きていけない。
本当に嫌いであるなら、自殺を選ぶしかない。
じゃあ、どうするか。
人を好きになればいい……けど、なる前に、死ぬと思う。
だから嫌うという感情を凍結《とうけつ》するしかない。
感情を永眠《えいみん》させてしまえばいい。
傷つけられることに負を覚えず、傷つけることに躊躇《ためら》わない。
聖人君子であり、危険人物でもある存在。
たとえそれを周囲の健全な人聞が、人と認めなくてもよかった。
異質に位置すると思わせられればよかった。
そういういきものに、なろうとした。
肩《かた》を抱《だ》く。震《ふる》えを忘れた肩は、生物のパーツとしての職務を放棄《ほうき》しているようだ。
「……あー、ヒキコモリになりてー」
折った膝《ひざ》を抱《かか》えて後ろに重心をかけ、ダルマになって硬《かた》い床《ゆか》の上を転がる。
吐《は》き気を催《もよお》すほど水分を摂取《せっしゅ》して待つこととどちらが幸せに見えるか、誰《だれ》か哲学的に教えてくれないものか。
洗い立ての靴《くつ》を履《は》かせ、湯上がりの二人を連れて外へ出た。
外は予想より寒気が覆《おお》っていた。待望の外に出た二人は異議を顔一杯に広げて、玄関《げんかん》の前で立ち竦《すく》む。
「久しぶりの外はどう?」
自息を吐《は》けそうな空気を吸い込みながら、僕は無理矢理に話を振《ふ》った。
「いつの間にか冬っぽくなってます」
抑《おさ》え気味に浩太《こうに》君が答えた。確かに、夜に関してはもう、秋がなりを潜《ひそ》め始めている。
「那個」
杏子《あんず》ちゃんが、僕の服の袖《そで》を引っ張る。反応すると、俯《うつむ》いていた顔が鼻を啜《すす》りながら僕を見上げた。
「真的、不能不回去嗎?」
弱弱的提問。
縋《すが》るような懇願《こんがん》するような、そんな問いかけ。
浩太君也望著我、用抱持著某種期待的眼神。
說實話、這讓我很困擾。
「就這麽不想回家?」
小杏子點了點頭。
「就想要待在那個跟牢房差不多的房間裡?」
小杏子又一次、點了點頭。
更《さら》に困る僕。
その理由を知っているが故《やえ》に、これ以上かける言葉がない。
だから、拒絶《きょぜつ》するしかない。
……また、思いを積み上げて。
「很可惜」
我、搖了搖頭。
「不回家、是不行的。那個房間並不是你們的家」
也不是我的家。
意気消沈《しょうちん》した二人の背中に手をやりながら、エレベーターへ足を向けた。
一階へ下り、寒々しいホールを抜《ぬ》けて、夜道に立つ。
大気の流動が活発なのか、見上げた夜空は雲が急速に流れていた。
寒さに身体《からだ》を震《ふる》わせ、そして意識を奮《ふる》わせる。
那麽、出發吧。
把這個、變成最後的殺人事件吧。
最後一人『枯竭殺人』
取り逃《に》がした。
初めての事態に、焦燥《しょうそう》と歓喜《かんき》がせめぎ合う。
行動を予《あらかじ》め測っていたように、二人は僕を確認《かくにん》もせずに逃亡《とうぼう》を図った。
その背中を、僕は驚愕《きょうがく》と共に追撃《つけげき》した。
愉快《ゆかい》で痛快な鬼《おに》ごっこ。
極《ごく》小さいライトの明かりに浮かび上がる、二人の子供の青白い肌《はだ》。二人は振《ふ》り返りもせず、一目散に駆《か》けている。僕を誘導《ゆうどう》している様子ではない。
今夜出てきたのが失敗か、それとも最良の経験を僕に与《あた》えるか、賭《か》けを行いたくなった。
二人は神社に飛び込む。砂利《じゃり》を踏《ふ》む音と、自身の呼吸音が静寂《せいじゃく》を破棄《はき》する。鬼ごっこより隠《かく》れんぼが好きな僕としては、そろそろその背中を捉《とら》え、ムイシキに身を委《ゆだ》ねたい頃合いだ。しかし、周囲の警戒《けいかい》を怠《おこた》らずに速く走るのは難しい。よって二人の足を止める方が現実的だ。
ナイフを鞘《さや》から引き抜《ぬ》き、二人の腰辺《こしあた》りを狙《ねら》って投擲《とうてき》した。境内《けいだい》に向かっていた少年の足下《あしもと》にナイフは飛びかかり、僅《わず》かに掠《かす》めて砂利に撥《は》ね飛ばされる。けれど、それで充分《じゅうぶん》。
切っ先に付けられた痛覚で少年が歩調を崩《くず》す。それを懸念《けねん》した少女が少年を気にかけながら振《ふ》り向こうとして、右足と左足を交差させて転倒《てんとう》した。手を繋《つな》いでいた少年の方も、体勢の崩れに加えて手を引っ張られ、受け身を取りながら砂利に倒《たお》れた。
その間に距離《きょり》を詰《つ》めるのは容易《ようい》だった。屈《かが》み、少年の足首を手で押さえながら、もう一振りのナイフを取り出し、振り上げ、そして少年達と対峙《たいじ》する。
少年は瞳《ひとみ》を揺《ゆ》らしながら、視線を逸《そ》らすことはなかった。呻《うめ》きも、悲鳴もあげない。命乞《ご》いさえしない。恐怖《きょうふ》で身が疎《すく》んでいる、という楽観的判断でいいのだろうか。身体《からだ》を小刻みに震《ふる》わせているのは寒気だというオチがあるかも知れない。僕は僅《わず》かに戸惑《とまど》い、抑圧《よくあつ》されていないにも拘《かか》わらず、少年の側《そば》から離れない少女に視線を移した。
どうして逃げない?僕の問いに、少女は口を開かない。一文字に結んだ唇《くちびる》は僕との交流を拒絶《きょぜつ》していた。一体この子達は、何を考えているのだろう。
ナイフを振り下ろすことを躊躇《ためら》う。このままムイシキに託《たく》して、未決|終了《しゅうりょう》を迎《むか》えるのは味気なく気味が悪い。二人に溢《あふ》れる異質を突き止めたい。
君達は殺されるんだぞ。そんな間抜けな台詞《せりふ》を口走ってしまった。二人は反応せず、ただ僕の目を覗《のぞ》き込む。僕が行う品定めの視線に何処《どこ》か似通っているそれは、口ほどに物を語るはずの目とは思えないほど無感情だった。
いい目だ、と素直《すなお》に賛辞の気持ちが湧《わ》く。特に少女の瞳《ひとみ》。鋼《はがね》色のような、揺《ゆ》れの存在しない瞳は、装飾《そうしょく》品として加工したくなるほどの強い欲求を引き出してくる。
この少女が、無性に欲しくなった。
葬儀《そうぎ》屋に引き渡《わた》すのが惜《お》しくなる。
無理矢理口を割らせて、声を張り上げさせたい。
首だけ切って持ち帰ってはどうだろう、虹彩《こうさい》が濁《にご》るまでは意思の疎通《そつう》が出来ないだろうか。いやいや、それは駄目《だめ》か。この瞳を濁らせるなど、僕には傍観《ぽうかん》出来るはずもない。
好奇《こうき》心より、欲望に気持ちが傾《かたむ》き始めた為《ため》か、視界で捉《とら》えていた異質が失せ始めている。ただ無口な少年と少女に変わっていく。これは意識の変化。もう一段の変化は、本質的に、肉塊《にくかい》へと変貌《へんぼう》させる。両方の瞳を気に入ったけど、少年の方は徹底《てってい》的に破壊《はかい》してみることにした。間引きは菜園の基本。二つ芸術品があれば、片方を際立《きわだ》たせるために、もう片方を無惨《むざん》に散らすことも、効果的だ。
さて、そろそ跳《は》ねた不意の悪寒《おかん》に導かれて横へ。
直後、風切り音を背後に聞いた。右|腕《うで》を振《ふ》り、ナイフで牽制《けんせい》を行いながら距離《きょり》を取る。
咄嵯《とっさ》にライトを向け、前方を確かめる。その場で拾ってきたような長さ三十センチ程《ほど》の木の棒を握《にぎ》って、今さっきまで僕が立っていた場所にそいつはいた。真っ自のパーカーに、脱色《だっしょく》の進んだ青色のジーンズを穿《は》いた全体的に色彩《しきさい》の薄《うす》い男だった。
「はーい、逃《に》げて逃げて」
そいつは、苦い顔で交通整理の人みたいに棒を振り、二人を茂《しげ》みの方向へ誘導《ゆうどう》して逃がした。僕は未練を感じながら二人を見逃《のが》し、灯《あか》りを消してそいつと対峙《たいじ》した。
そいつの目はお世辞にも澄《す》んでいるとは言い難《がた》い。けどそいつの雰囲気《ふんいき》、顔の作りと同調し、異質さは隠蔽《いんぺい》されていた。……違《ちが》うか、全部が異様だから、強調されていないだけだな。
「年下|趣味《しゅみ》も節度を弁《わきま》えろよ、みーくん」
表情を素面《すめん》に戻《もど》し、余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》といったようにそいつは言《い》う。
油断と区別がつかないほどの、徹底《てってい》的な余裕。
何だよ、お前。
「つれない質問だな、これでもご町内では用水路と呼ばれるほどの人気者なのに」
なんか、微妙《びみょう》にイジメの臭《にお》いがする異名だな。
「失敬な。君は用水路の価値を知らないからそういうことが言えるんだ。そもそも、用水路を説明出来るのか君は。用水路のない風景の味気なさに耐《た》えられるのか、用水路の潤《うるお》いぶりを君は知っているのか!」
……分かったよ、用水路。
「ハッ、どぶ川が!」
勝ち誇《ほこ》られた。僕が言うのもなんだけど、こいつは病院で大人しくしてるだけで社会|貢献《こうけん》できる人種だと思う。
そいつは棒を構えながらも、距離《きょり》を詰《つ》めようとはしない。出方を測っているのか、或《ある》いは経験がないのか。
「まだ慌《あわ》てる時間じゃないだろ、みーくん。そう睨《にら》むなよ」
口はよく動く奴《やつ》だ。君が僕を呼び出したのか?
「……ランプの魔神《まじん》じゃないんだから。殺人鬼《き》は呼ばんて」
不思議そうにしながら、手を振《ふ》って否定した。……こいつじゃないのか?
「しかし、本当にひのきの棒で戦う日が来るとは」
そいつが肩《かた》を落として嘆《なげ》く。せめて毒針が欲しい、と小声で付け足す。
そいつは明らかに喧嘩《けんか》慣れしていなかった。どう動き、先手を取るべきかも分かっていない。だから僕から近づいてやった。そいつは顔色を変えることはないが、明らかに身体《からだ》を緊張《きんちょう》で強張《こわば》らせる。
そいつが牽制《けんせい》に振《ふ》った棒が僕の眼前を掠《かす》め、振り切られる瞬間《しゅんかん》に踏《ふ》み込んで前へ出た。そいつの無防備な胴体《どうたい》に、ナイフを突《つ》き出す。鳩尾《みぞおち》を狙《ねら》った一撃《いちげき》は、そいつがその状態から肉|離《ばな》れを起こしそうなほど身体を捻《ひね》り、脇《わき》を掠《かす》めるだけだった。そのままそいつは側転《そくてん》するように離れ、距離を取る。顔に恐《おそ》れは一切《いっさい》ないけど、肩の上下が激しくなっていた。
また僕から距離を縮める。殺しはしない、戦意と行動を削《そ》ぐ。そいつは僕の攻撃《こうげき》を避《さ》けようと後手に回る。視線は右手のナイフに注目し、棒で弾《はじ》こうと腰《こし》を落として構える。僕は左手を下手から振り上げた。
そいつの注意が何の疑いもなく左|腕《うで》に向く。短くバックステップを取り、視線を顔ごと上に向けてしまう。僕は右足を鋭《ずるど》く踏み込み、障害《しょうがい》なくそいつの左腕の肩《かた》から肘《ひじ》を繋《つな》げる肉に刃《は》を突《つ》き立てた。骨から肉を削ぎ取るように深々と突き抜《ぬ》ける。そいつは並びの良い白歯を食いしばり、悲鳴をあげない。それぐらいなら攻撃する、と目が語っていた。
そいつが不安定な身体を捻って棒を横に払《はら》ってくる。僕はナイフを抜き取りながら屈《かが》んで回避《かいひ》し、ナイフを根元までそいつの右太股《ふともも》に突き入れ、引き裂《さ》いた。
これで大勢は決した。
そいつは口端《こうたん》から蟹《かに》みたいに泡《あわ》を吹《ふ》き零《こぼ》すほど奥歯を噛《か》み合わせて悲鳴を堪《こら》え、意識が遠のいたように足腰が崩《くず》れる。受け身も取らずに顔面から倒《たお》れるそいつを支えるなんて紳士《しんし》な振る舞いはせず、人体の内面を覗《のぞ》かせた傷|痕《あと》から手早く凶器《きょうき》を抜いて一歩下がる。引き抜く痛みと顔面を打撲《だぼく》した二つの衝撃《しょうげき》により気絶から復帰したのか、涙目《なみだめ》になりながらもそいつは顔を上げる。
「……もう慌てる時間じゃないな、みーくん」
いつ慌てればよかったんだ。
そいつ自身は別段慌《あわ》てず、僕、というか空を見上げて嘆息《たんそく》した。
「参った……。痛みにはある程度|耐性《たいせい》があっても、人体の仕組みは曲げられないか。別にヘタレてるわけじゃねえぞ、千手ピンチなだけだ」
そいつは、体育館で朝礼を聞く時のように、ぺたりと座り込んで後頭部を掻《か》く。痩《や》せ我慢《がまん》にも見えるその態度が、妙《みょう》に似合っている。
「大体さあ、何で文系の僕が殺人|鬼《き》と戦闘《せんとう》なんかしないといけないんだよ。こういう荒事は黒マントの糸使いの役割だろ……」
愚痴《ぐち》り出した。まるで僕は眼中にないように、ぶつぶつと独《ひと》り言《ごと》を漏《も》らしている。
「そう思わないか?」
と思ったら、同意を求めてきた。僕は肩を疎《すく》め、それを返事とする。
「知らないのか?これだから現代っ子は、活字|離《ばな》れを嘆《なげ》かれるんだ」
今、鏡を見れば僕は相好《そうこう》を崩《くず》しているかも知れない。こいつとの会話は、取り急いだ殺害意欲を減退させる。場の危機感を、そいつがいるだけで緩和《かんわ》してしまっているようだ。
殺されようとしている奴《やつ》に命|乞《ご》いどころか軽口を叩《たた》かれるなんて、思いもよらなかった。
面白さと興味の混合物が、こいつとお話ししようぜと命じてくる。それについ従ってみた。
……で、結局、君はどうしてここに現れてちょっかいをかけたんだ?
「知りたいか?」
僕は素直《すなお》に頷《うなず》いた。だって君はもしかしたら、同類かも知れないんだ。
そう言うと、そいつは当たり前だうと蔑《さげす》んできた。
「じゃあ何か、君と僕のどっちかは人間じゃないっていうのか?ああ、そりゃいい。君は殺人鬼と評判だからな。で、僕も鬼《おに》ってのか?冗談《じょうだん》じゃない、鬼二人で鬼ごっこが出来るかよ」
そいつの言葉は、独特の軽さを持って僕に届く。そうだよな、と思わず納得《なっとく》してしまう説得力があった。
けど、人間にも、色々いるだろ。
「そりゃいるさ。でも種類を分けられるほど差があるとは思えないね。現在的には卵を口から産む人間はいないし、血が青色の奴もいない。逆にどいつも赤い血液が流れて、口から嘘《うそ》ばかりついている。つまり同類なんて格好つけた言葉使わずに、同好の志を探してるって言えばいいんだよ」
君の意見は、参考になるけど……話、道草しすぎだろ。
「ああ、僕が出しゃばった理由か。正義の為《ため》とか、誰《だれ》かの為とかそんな理由はないよ。僕が言っても格好悪いし、第一もしそう言熔うものなら、その後に一言付け加えないといけないんだ。致命《ちめい》的に情けない言い訳を、一つ」
そいつは、その状況《じょうきょう》を思い浮かべたのか、少しだけ楽しそうに口端《こうたん》を曲げる。けどすぐに、無表情に落ち着く。
「コンビニに行くのが好きなんだ」
唐突《とうとつ》な切り出しだった。僕もだ、と返事をする。
「今日も深夜の散歩ついでに寄ろうとした。で、君がいたいけな少年少女を押し倒《たお》しているのが見えたから、僕も参加させてもらおうと声をかけたんだ」
どうにも嘘《うそ》くさい理由だった。というか、嘘だろう。
「そういえばあの二人を逃《に》がしたから、捕《つか》まるぜ」
そう言ってからすぐに、「どうでもいいけどさ」と、興を削《そ》いだ口調で付け足した。
「ここで殺される僕が心配することでもないし。そう僕は、ここで殺されるわけだ。そこで尋《たず》ねたいんだけど、今までの死体って殺してから解体したのか、解体してから殺したのかどっちなんだ?」
生きてる人間をバラすなんて悠長《ゆうちょう》なことをしていたら、とっくに捕まってるよ。
「そうなんだろうけどね、一応の確認《かくにん》。もし後者の手段を取る気なら、自殺の覚悟《かくご》を固めないといけないから。……ああごめん、今の取り消し。覚悟いらない」
自棄《じき》があればいい、とそいつは投げやりに言った。
「君は人の為《ため》に死ねる?」
無理だね。
「じゃあ自分の為なら死ねる?」
それも、無理だね。
「だよね。人は、何かの対価に死を選ぶなんて出来はしないんだ。……どっこい、僕は違《ちが》う。僕は人の為でも自分のためでも世界平和の為でもなく、何の利害もなく死ねてしまえる。それこそ浮気の現場を目撃《もくげき》されたら、言い訳せず自殺するとか、そんな感じ。ああ、これは一応他人の為かな。いや、逃避《とうひ》だから自分か?まあいいや」
ただね、とそいつは言葉を繋《つな》いだ。
「昔から、死ぬことより怖《こわ》いことがあったんだ」
僕にはそんなものない。そう告げたら、滑稽《こっけい》だねとそいつは笑った。そして語る。
「人体の一部を欠損して生きていくこと。これが何より怖かった。例えば手首が切り離《はな》されること。例えば足の指を全《すべ》て切断されること。……そうやって、身体《からだ》を壊《こわ》されて、それでも生きていくことが、怖い。何よりも、怖い」
そいつは、僕の顔を直視しながら、独白のように言葉を紡《つむ》いだ。
「切り離されるっていうのが怖いんだな。子供の頃《ころ》に読んだ小説がトラウマになっていると思うんだ。手首を切る犯人の物語があってね、赤ん坊の手を切るっていうのが、生々しくて鳥肌《とりはだ》立った」
思い出したのか、苦い顔をして首を振《ふ》った。
そして僕が何か言う前に、そいつはまた一方的に喋《しゃべ》った。
「つーわけで、僕の手首は切るなよ。呪《のろ》うぞ」
そう言われるとやりたくなるんだけど。
「底意地の悪い奴《やつ》だな、僕を見習えよ。僕は相手が言わなかったことを徹底《てってい》的にやってそれ以上の嫌《いや》がらぜに昇華《しょうか》させる。そして歯軋《はぎし》りさせながら、お門違《かどちが》いの文句を楽しく聞いてやる」
……君、意地の悪さに底がないな。
「褒《ほ》めるなよ、図に乗るだろ」
詰《つ》まらなそうにそいつは言った。
「死の時はあれだ、人の腕《うで》の中が理想。けど正面からこう、覆《おお》い被《かぶ》さるように抱《だ》かれると、なんか生理的に受け付けないんだ」
トラウマの多い奴だな。
「トラウマは人生の証《あかし》っていうだろ」
言わねえよ。
「おひとつどうぞ」
お裾分《すそわ》けするんじゃねえよ。
僕のありきたりな返事にそいつは鼻を鳴らし、傷口に指を這《は》わせる。べたりと付着した血液を、湯煎《ゆせん》にかけたチョコレートのように指先で糸を引かせて弄《もてあそ》ぶ。
それから僕を見るそいつが、急に不敵な顔つきになった。
「僕はここで君に殺される。けどそれで終わりだ。君の殺人|鬼《き》役は、お終《しま》いだよ」
予言を突《つ》きつけてきた。朝の占《うらな》いぐらい信憑《しんぴょう》性が伝わってこない。
「僕が死んだことを知れば、そこから有能な探偵《たんてい》が君を犯人と割り出す」
……なんだよ、探偵って。
「僕の知り合いでね、恨《うら》み辛《つら》み絡《がら》みという個人的事情の下《もと》に捜査《そうさ》に本腰《ほんこし》を入れて、君を見つけて解剖《かいぼう》ごっこでもして遊んでくれるさ。ドSでね、言葉|責《ぜ》めの神様みたいな奴なんだ。覚悟《かくご》しておくといいよ。……あーあ、もっと生きたかったね」
そいつは全く表情を変えないので、本気か判別しかねた。
でも仮にそうだとしても、その探偵と会ってみるのも一興だ。むしろ、そういうのも相手にしてみたい。それで、
鳥肌《とりはだ》が何より先だった。
ついで、恐怖《きょうふ》。
そいつの意志の明確な切り替《か》わりが、視界を揺《ゆ》さぶる。
僕の無様で滑稽《こっけい》な隙《すざ》を突き、そいつは反撃《はんげき》に打って出てきた。
そしてその直前、
僕が刹那《せつな》に見たそいつの口元は、こう呟《つぶや》いた。
凄滲《せいさん》に、口元を歪《ゆが》めながら。
何よりも堪《に》え難《がた》い愉悦《ゆえつ》を目に灯《とも》して、
嘘だけど
恐怖令身體用極限的速度作出了反應。
即便如此、也太遲了。
そいつが僕の膝元《ひざもと》に飛びかかり、諸手狩《もろてが》りのように足下《あしもと》を掬《すく》ってきた。倒《たお》れ込みながら振《ふ》り払《はら》ったナイフはそいつの頭部を掠《かす》め、数本の髪《かみ》を散らしたに過ぎない。
自分の間抜《まぬ》けと迂闊《うかつ》を呪《のろ》った。
背中から石の絨毯《じゅうたん》に転倒《てんとう》する。尖《とが》った石が背筋に刺《さ》さったらしく、息が詰《つ》まりそうになった。けれどそんな悠長《ゆうちょう》な行動を取る余裕《よゆう》はない。力ずくで引き剥《は》がそうと、ナイフを眉間《みけん》に刺し込もうとした瞬間《しゅんかん》、そいつはそれより早く負傷した左手を突《つ》き出し、その先に握《にぎ》った細長い何かを僕の右腕《うで》に押しつけ、その刹那《せつな》火花が散った。一瞬、目眩《めまい》がするほどの光が視界を舞《ま》った。
そして後追いで、焼け焦《こ》げた錯覚《さっかく》に囚《とら》われるほど鋭《するど》い熱と衝撃《しょうげき》が右手に走る。その隙にそいつは、叫《さけ》びながら僕の手を取ってナイフを奪《うば》い、逆に僕の右腕に突き刺した。今度はこっちが悲鳴をあげる番だったが、それさえもそいつは許さない。光が焼き付いた視界の中でそいつは僕の開けた口の中へ手を突っ込む。そして今し方のそれ、恐《おそ》らくスタンガンの先端《せんたん》を喉《のど》に触《ふ》れさせながらスイッチを入れた。針がそこから頭の頂点まで突き刺さったような激痛が襲《おそ》ってきた。急激な吐《は》き気と、気力の喪失《そうしつ》。顔の神経が麻痺《まひ》して涙《なみだ》と鼻水を抑《おさ》えきれなくなる。抵抗《ていこう》の意が失われたことを確認《かくにん》して、そいつは僕の口から手を引いた。
「嘘に決まってるだろ。僕を殺せるのは時間や心とかロマンチックが止まらないものだけなんだよ。血の滴《したた》りが止まらない殺人|鬼《き》は冷蔵庫の肉刺して寝《ね》ろ。そもそも生きてるのが嫌《いや》なわけないし。バカップルですから自分。つうか女|探偵《たんてい》なんか知り合いにいないし。もしそんな奴《やつ》と浮気してるのが恋人にばれたら死を選ばないといけないし。忍者《にんじゃ》かよ僕は」
饒舌《じょうぜつ》を振るいながら、僕の右腕からナイフを抜き取る。その痛みに、呻《うめ》き声もあげられない。顔の中に鉄柱を埋《う》め込まれたような、最悪の圧迫《あっぱく》感が僕から表現を奪《うば》っていた。
今の僕は、僅《わず》かに思考が働く死体に過ぎない。
「生憎《あいにく》、殺人|鬼《き》の相手は初体験じゃないんだ。……残念だったね、思い出せなくて」
そいつが何か言っているけど、よく聞き取れない。
この不快感から逃《のが》れたいとだけ念じていた。
「それにしても馬鹿《ばか》だなみーくんは。お前は不殺の信念を持つ主人公かって内心ツッコミを入れていたよ。トランペットに憧《あこが》れてショーウィンドウに張り付く少年かお前はとも思った。変身中は攻撃《こうげき》しない律儀《りちぎ》な悪の組織かとも思ったし、悪役の不幸自慢《じまん》を一字一句|逃《のが》さず拝聴《はいちょう》する正義の味方かとも思った。ついでに言えば、無人島に半年間|独《ひと》りで滞在《たいざい》して動物と楽しく話せるようになった奴《やつ》かと思ったし、SFパワーでタイムスリップして未来へ飛び、初めて言葉の通じる人に出会った奴かとも思った。そんなに僕のお話は興味深かったか?」
本当に、そいつの言うとおりだった。どうして僕は、即座《そくざ》に殺害しないことを前提に行動し、仲良く談笑に興じてしまったんだろう。間抜《まぬ》けという評価が生温《なまぬる》いぐらいの、敗因。
そいつが僕の脇《わき》に屈《かが》んだのが見える。太股《ふともも》の傷が開いたのか、「いてーいてー」と冗談《じょうだん》みたいにぼやく。そして左腕《うで》を取り、関節の部分に膝《ひざ》を当て、躊躇《ためら》いなく折ってきた。ぎいいい、と喉《のど》の奥から悲鳴が漏《も》れたけど、そいつは何の反応も見せない。それは多分僕が、死体の解体を行う時と同質のモノ。作業として行う時の態度。ついで、両足の首を折られた。その頃《ころ》には、痛みが麻痺《まひ》して、顔だけだったはずの鉄柱が全身に埋《う》め込まれたような不快感があるだけだった。
失敗了。
僕は、ムイシキにしか人を殺せないんだった。
僕が壊《こわ》されていく。いや、もう壊れてしまったのか。
先程《さきほど》そいつが、もう嘘《うそ》か誠《まこと》か分かりはしないけど言った恐《おそ》れが、少しだけ身に染みた。
死にたくなる。
死んで、不快と不自由な自分を終わらせたくなる。
目線で何とかそれを伝えようとしたけど、そいつは僕のことなんか見ていなかった。
ナイフから垂《た》れる、僕とそいつの血を暗闇《くらやみ》の中で目視していた。
区別出来ない、同じ色の液体。
ここで出会ったことが故意か運命かなんてどうでもいいけど、これだけは納得《なっとく》できる。
我們是同類。
就如你說的那樣。
但是、那又會如何。
往我預測的方向發展了。
還沒有商量完。
那是我的錯嗎?
因爲、順序弄錯了。
如果、在之前先商量的話、
會怎麽樣呢。
會變成、朋友吧。
想成爲朋友嗎?
願い下げな気もするし、
心から、受け入れる気分でもあった。
「走馬燈《そうまとう》で、僕を思い出してくれ」
格好を付けたその言葉が、最後に聞こえる。
啊啊、我被同類殺了。
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