第二章 雙親與診療

第二章 雙親與診療

「大家、都在做些什麽呢」

「『大家』是?」

「長瀬和川北之類」

「學校的朋友?」

「嗯」

「那麽、大概還是普通的在上學哦」

「會擔心我們的吧?」

「一定會的哦」

雖然這麽答應著,但在我的心裡想著『多半不會』。

「那爸爸和媽媽也會嗎?」

「一定、會的哦」

我們的談話就在這裡停下了。

那之後,仿佛忘記這番話般睡去了。

朝日が眩《まぶ》しい午前七時、早朝。登校には早すぎる時間帯に既《すで》に学校前を通過し、更《さら》に歩を進めてマユのマンションを訪《おとず》れていた。今日から同棲《どうせい》する為《ため》である。その期待感に、十二年間待ったグームの発売日を迎《むか》えた、かつて子供だった大人並みに早起きしてしまった。まあ嘘《うそ》だけど。

ただ単に、昼夜逆転の生活をしている看護師の叔母《おば》と顔を合わせたくなかっただけだ。昨日、帰着してから大喧嘩《おおげんか》と相成《あいな》った。不純な交遊とか以前に、貴様に生きる資格はないと言わんばかりに基本的人権の迫害《はくがい》を互《たが》いに罵《ののし》りと共にぶつけ合った。骨肉の争いに発展する寸前で、まだ物分かりの良い医者の叔父《おじ》が折れて、月に一度は顔見せに来ることを条件に許可した。叔母は最後まで反対していた。少々、過保護なのだ。けど少なくとも僕より悪人ではない。

「ちょっと早すぎるかな……」

エレベーターに乗って三階へ行き、マユの部屋の前で立ち止まって呟《つぶや》く。マユはよく眠《ねむ》る子だ。学校でも机に突《つ》っ伏《ぷ》して寝《ね》ているところと、二時間目から出席する姿しか記憶《きおく》にない。

「迎《むか》えに行くとは約束したけど、起きられるのかな……」

駄目《だめ》もとでチャイムを押した。出ないなら外で待ドアが開いて僕にぶち当たった。

「っつ、っつ!」

感|極《きわ》まって、言葉にならない想《おも》いが赤い鼻汁《はなじる》として溢《あふ》れてきた。

「やほー、みーくん!」

鼻を押さえる僕と、無邪気《むじゃき》にはしゃいで挨拶《あいさつ》するマユ。

「やほー?」

パジャマ姿のマユが、笑顔《えがお》のまま首を傾《かし》げる。それから、僕の指の隙間《すきき》から流れる鼻血に対して、パジャマの袖《そで》でぐいぐいと拭《ふ》いてきた。

「いいって、汚《よご》れちゃうから」

「へーきへーき。みーくんのは綺麗《きれい》だから」

青と白のストライプのパジャマが、一部分だけ斑《まだら》のように三色目を付着させる。それを見て、マユは恍惚《こうこつ》のような、潤《うる》んだ瞳《ひとみ》であどけなく笑う。

背筋を爬虫《はちゅう》類が横断するような、鳥肌《とりはだ》と冷や汗《あせ》の感覚に頬《ほお》を引きつらせながら、僕は確認《かくにん》した。

「……いつから玄関《げんかん》に立ってたの?」

「昨日から」

「…………キノウ?」

「いえすたでー」

「……昨日のいつから」

「みーくんが逃《に》げて、お風呂《ふろ》入ってから」

僕がこの部屋を出たのは、午後七時前だ。

「扉《とびら》の前で、待ってたの?」

「うん」

「何して」

「寝てた」

「…………………………」

えーと。

これを健気《けなげ》な娘《むすめ》やと感涙《かんるい》するか、こえーよーと廊下《ろうか》の隅《すみ》で震《ふる》えるかで、関係が決まるんじゃないかな。そして考えるまでもなく、捻《ひね》くれ者はどちらも選ばなかった。

「もっと早く来ればよかったね、ごめん」

無難な意見で日和見《ひよりみ》をしておく。マユは気にすんねーと気さくな態度で応じ、そのまま飛びかかるように抱《だ》きついてきた。

「みいく~ん」

甘えた声と共に、胸元に柔《やわ》らかい頬《ほお》を寄せてくる。

……ん?確かこの、甘えたがりな同棲《どうせい》相手に尋《たず》ねることがあったような……。

「んー?なんか、石鹸《せっけん》の香《かお》りがするー」

マユからは甘い匂《にお》いがする。その匂いの所為《せい》で、尋《たず》ね事を完全に忘却《ぼうきゃく》した。

「朝風呂が好きなのだ」

入ったのは今日が初めてだけど。昨日は風呂に入る暇《ひま》もなかったから。

マユを付属させたまま、部屋に上がる、僕が一緒《いっしょ》に住むかどうか、マユは確認《かくにん》してこなかった。聞くまでもないということなんだろう。そして言うほどのことでもないから、それは正しい。

昨日と変わらない居間に入り、学生|鞄《かばん》と、着替《きが》えを詰《つ》めたスポーツバッグを床《ゆか》に置く。和室に目をやると、襖《ふすま》は堅牢《けんろう》に閉じられていた。よくあの部屋で一日中過ごして気が狂《くる》わないものだと他人事として感心する。

「朝ご飯は?」と、僕の腕《うで》にしがみつきながらマユが質問してきた。

「食べてないけど」

「そうじゃなくて、パンかご飯、どっちがいいかなということ」

ああ、食べるのは決定|事項《じこう》なのか。食べないと昨日みたいに箸《はし》で食べられちゃうぜ、などと謎《なぞ》の言葉を夢想している自分はやはり狂《くる》っていると思いました、まる。

「じゃ、パンで。洋室だしね」

何の関連性もない意見を告げた。マユは「分かった」と了解《りょうかい》しながらも、僕に引っ付いて具体的な行動は見せない。満足そうな表情からして、抱《だ》き枕《まくら》としては合格なのだろう。一緒《いっしょ》に寝《ね》転ぶようにソファへ座り、三十二インチのテレビの電源を入れた。

「朝にテレビ見るなんて初めて」

珍《めずら》しいとか久しぶりですらないのか。

画面は、見慣れた景色《けしき》を映し出していた。僕らの住んでいる街である。連続殺人事件というアリガチなテロップが、さも大仰《おおぎょう》そうに表れた。

「昨日の夜も人が死んじゃったんだって」

「物騒《ぶっそう》だねえ、でも人って毎日死んでるよねえ、こんな大々的に言わなくてもいいのにねえ」

軽くとぼけておいた。昨日の時点で知っていたことだ。

殺害されたのは、巡回《じゅんかい》していた自治会の会長。見回りを終えて引き継《つ》ぎを行う際、僅《わず》か五分程度の間一人でいたところを殺害された。死因はオーソドックスに、刃物《はもの》による刺殺《しさつ》。側頭部に物の見事に穴が空いていたらしい。犯行時刻は午後八時|頃《ごろ》、場所は小学校の近所だった。犯人の目撃《もくげき》談は皆無《かいむ》。そろそろ本当に、殺害犯が存在する人殺《じんさつ》事件なのかと疑問視する住民まで出てきそうだ。犯行の元凶《げんきょう》は、オカルトや超常現象の類《たぐい》ではないかと。それぐらい、人死にと縁《えん》のない街だったのに。半年前までは。

「ほんと、怖《こわ》いなあ……マユ?」

薄《うす》っぺらい僕の感想に、マユの反応はなかった。ただ、先刻までの笑顔《えがお》を破棄《はき》して、光も濁《にご》りもない瞳《ひとみ》で、ブラウン管の映し出す光景を眺《なが》めていた。

「……久しぶり」

独《ひと》り言《ごと》として呟《つぶや》く。同時に、懐古《かいこ》に浸《ひた》る。それは蛆虫《うじむし》の群れに素足《すあし》を突《つ》っ込む事態を想像するよりも、嫌悪《けんお》と悪寒《おかん》に襲《おそ》われるおぞましいものだった。

「ねえ」

突然《とつぜん》、マユが僕を見上げた、無機質な瞳《ひとみ》が、僕の眼《め》を覗《のぞ》き込んでくる。

「あれをやったの、みーくん?」

何気ない口調の質問だった。根拠《こんきょ》も脈絡《みゃくらく》もないのに、語尾《ごび》の疑問が弱い。

「いいや」と、僕は嘘《うそ》をついた。

「まーちゃん、人殺しが大|嫌《きら》いなんだろ?」

「うん。わたし、世界で一番嫌い」

また、マユの顔が笑いを形作る。そして、覆《おお》い被《かぶ》さるように僕の膝《ひざ》の上に座る。互《たが》いの頬《ほお》を合わせ、すり寄せてきた。

「そしてみーくんを世界で一番××してます」

「……どもっす」

無論、この程度で照れるはずもない。

「お、お?みーくんのほっぺが熱くなってきた。それにとりはだぶつぶつー」

「…………………………」

嘘《うそ》だけど。

「ご、ご飯食べよう。麦を摂取《せっしゅ》したい気分なんだよ」

ヘタレと表されそうなほど狼狽《ろうばい》していた。マユは勝ち誇《ほこ》る余裕《よゆう》の笑《え》みで、「はいはい」とかあやすように言ってきた。子供に子供|扱《あつか》いされるとはなんたる屈辱《くつじょく》。大好きとか身体《からだ》の接触《せっしょく》は平気なのに、ラブの和訳が露骨《ろこつ》に弱点すぎる。無理して仏頂面《ぶっちょうづら》になり、恥《はじ》の上塗《うわぬ》りを避《さ》けた。

マユが僕から離《にな》れ、キッチンへ歩き出す.今日は落ち着いたのか、慌《あわ》ただしく走ることはしない。ふらふらと、夢遊病のような足取りのマユの背中に、僕は問いかける。

「もしもの話……僕が今の犯入だったらどうする?」

マユは振《ふ》り向き、そのままねじ切るような勢いで首を傾《かし》げた。

「どうするって?」

「いやほら、警察に突《つ》き出すとか、怖《こわ》いキモイ変態とか、お前が死ねバーカとか……」

自分の発想の貧困さに呆《あき》れた。ただの悪口じゃねえか。しかも小学生以下。

「うーん……わかんね」

マユは方言的な言い回しで反応し、首を更《さら》に捻《ひね》る。そのままぺたぺた歩いていってしまった。

「例えばみーくんは、今わたしが死んだらどうする?」

キッチンから声が届いた。大した声量でもないのに、明確に鼓膜《こまく》を揺《ゆ》らす。

「そういうことは絶対に考えないから分からない」

「うん!とゆーことなのだ!」

なるほど、そういうことか!

言葉の意味は分からないけど、漲《みなぎ》るマユの自信に感化されて理解することにした。別に他意があった質問でもないし、これでいいのだ。

それから退屈になる前に、和室の襖《ふすま》を控《ひか》えめに開いた。暗室となっていた室内から、やはり万人の忌《い》み嫌《きら》う臭《にお》いが漂《ただよ》ってくる。鼻先を手で覆《おお》い、鼻血が知ら阻間に止まっていたことに気付いた。部屋に入る。

二人は、部屋の隅《すみ》に寄り添《そ》って横になっていた。浩太《こうた》君が杏子《あんず》ちゃんを庇《かば》うように、抱擁《ほうよう》しながら眠《ねむ》っている。杏子ちゃんも、日溜《ひだ》まりの猫《ねこ》のように丸くなっていた。

「……へぇ」

微笑《はほえ》ましいとは思った。けど顔の筋肉は微動《びどう》だにしなかった。特定の事柄《ことがら》でないと、どうにも弛緩《しかん》してくれない。勿論《もちろん》それは、楽しいことでしか笑えないということだ。嘘《うそ》だけど。

一度出て、まだ入ったことのない、恐《おそ》らくマユの寝室《しんしつ》に向かう。廊下《ろうか》を越《こ》えてその扉《とびら》を開けると、今度は鼻ではなくて目を塞《ふさ》ぎたくなる惨状《さんじょう》が広がっていた。教科書は床《ゆか》に平積みで、べッドのシーツは丸まって隅に放置。机上《きじょう》にはファンシーでファンキーな小物類が山積みにしてあり、機能を果たせていない。ただマユは一切《いっさい》、書物を読まないため、雑誌《ざっし》や本が散らかっていることはなく、本棚《ほんだな》もない。

嘆息《たんそく》しながら、教科書を飛び越《こ》えてクローゼットを開く。中の服も、皺《しわ》になることを厭《いと》わず、乱雑に仕舞《しま》ってあった。マユの私服を掻《か》き分けて粗末《そまつ》な毛布を入手し、薄く積もった埃《ほこり》を払《はら》う。それから、毛布を小脇《こわき》に抱《かか》えて部屋を退出した。

「居間が散らかってないのは、使ってないってことか……」

リビングなのに生活感がない、という実にーだらない洒落《しゃれ》に呆《あき》れながら、和室へ舞《ま》い戻《もど》った。毛布を広げ、二人の上に被《かぶ》せようとすると、杏子《あんず》ちゃんの狐目《きつねめ》が反応した。

「……べつに、いらないわよ」

夢現《ゆめうつつ》の杏子ちゃんが半目で、僕を見上げる。

「ゆーかいはんのほどこしなんか、いらない……」

施《ほどこ》しとは、難しい言葉をご存じで。

昨日の食事とは異なり、生理的欲求に訴《うった》えかけていない為《ため》か拒絶《きょぜつ》の意志を見せる。けど。

「残念だけど今は誘拐《ゆうかい》犯しか施ししてくれないから、素直《すなお》に受け取っておくといいよ」

毛布を被せる。顔が半分|隠《かく》れた杏子ちゃんが、毛布越しのくぐもった声で「いらないって言ってるじゃない」と気怠《けだる》そうに抗議《こうぎ》してきた。

「君の意見を押し通した結果、お兄さんが風邪《かぜ》をひくかもしれない。それでもいい?」

杏子ちゃんは押し黙《だま》り、瞳《ひとみ》を縦横に彷徨《さまよ》わせ、最後は毛布に潜《もぐ》り込んでしまった。消極的な肯定《こうてい》の態度と受け取り、そのまま部屋を後にしようとした。

「ありがと……」

虫の羽音よりも儚《はかな》い声だった。本人的に、聞く者を予定していない独《ひと》り言《ごと》だったのかも知れない。けど、田舎《いなか》の早朝が演出する静寂《せいじゃく》の中では、喋《しゃべ》らないぐらいで丁度《ちょうど》良いと思う。

「……昨日のことだから、こーたに言えって言われたから……」

言い訳っぽく、後付けをした。「どういたしまして」と口の中で呟《つぶや》き、部屋を出た。

偽善《ぎぜん》的な振《ふ》る舞《ま》いによる充足《じゅうそく》感を、今更《いまさら》のように思い出した。

朝食を『はいあーん』して『お返しにあーん』して食べさせ合って、一通りバカップルしてから部屋を出ると同時に、マユは幼稚《ようち》さを隠蔽《いんぺい》した。無口、無表情を昨日までと同様に貫《つらぬ》き、僕の隣《となり》を冷めた態度で歩く。ホテルから出た不倫《ふりん》カップルってこんな感じなのかなあと思いながら、それがマユの、世界に対する処世術なんだろうと納得《なっとく》し、僕もまた無言の登校に努めた。ただ、階段の昇降《しょうこう》の際には手すり代わりとして僕の手を貸した。

そうして学校の教室に到着《とうちゃく》すると、マユは一直線に自席に着席し、鞄《かばん》を机の脇《わき》に引っ掛《か》ける。そして上半身を机に突《つ》っ伏《ぷ》した。真っ正面から机とキスをする体勢。あの寝《ね》方では端麗《たんれい》なマユの容姿が勿体《もったい》ないとバカップルの片割れは思った。

声をかける者は、一人としていない。放課後までマユの眠《ねむ》りが妨《さまた》げられることはない。担任の上沼《かみぬま》先生を筆頭として、当校の教師|陣《じん》は事なかれ主義と見て見ぬふりを駆使《くし》する日和見《ひよりみ》思想に傾倒《けいとう》しているので、マユの授業態度に対しても見なかったことにして教壇《きょうだん》に上がる。

昼休みに起こした方が良いんだろうか。下校時は一緒《いっしょ》に教室出ていいのかな。離《はな》れた席で頬杖《ほおづえ》を突《つ》き、Cの字みたいな姿勢で睡眠《すいみん》中のマユを眺《なが》めながら、僕はあれこれと気を揉《も》んで結局、教師に倣《なら》って日和見することにした。

マユは終日、身じろぎ一つせず眠《ねむ》りこけていた。

そして別に特筆することもなく放課後を迎《むか》えた。

喧騒《けんそう》の中、配布された二種類のプリントの見出しを確認《かくにん》する。一枚は生徒会便りで、もう一枚は修学旅行についての記述だった。

生徒会便りには、本校|屈指《くっし》のハートが病気の人達が運営する生徒会からの便りが書かれている。そのまんまである。その内容は、最近日本を震憾《しんかん》させている殺人事件についての注意書きが一行、『危険な物を持っている人に出くわしたら注意しましょう』という、君達の脳味噌《のうみそ》が危険物だと説教したくなる記載《きさい》がされているだけだった。余白は全て、生徒会|執行《しっこう》委員の思想、流儀《りゅうぎ》、武勇伝が各々《おのおの》に配分された欄《らん》(階級によって差がある)に限界まで記されている、つまり『俺様コラム』が目白押しだった。そんな集団であるから、もし僕が謎《なぞ》の転校生であってもこいつらとは喧嘩《けんか》したくない。紙飛行機にしてゴミ箱に投擲《とうてき》した。ボッシュー卜。

もう一枚の修学旅行については、積み立て金から下ろした金額や、行き先の電話番号など、保護者向けの内容だった。それには一通り目を通してから、折り畳《たた》んで仕舞《しま》った。

今から約三週間後、僕らは修学旅行の日程が組まれている。行き先は九州だ。三泊《ぱく》四日の旅行で、北九州を巡《めぐ》る予定になっていることを、一ヶ月ほど前に上沼先生が投げやりに説明していた。それを聞いて、生徒会長の菅原道真《すがわらみちざね》は太宰府天満宮《だざいみてんまんぐう》でどれぐらいからかわれるんだろうなあとか僕は考えていた。

さて、普段《ふだん》は放課後には自発的に復活するマユだけど、今日は蘇生《そせい》の兆《きざ》しがない。若干《じゃっかん》躊躇《ためら》いと迷いが生じる。けど一人で帰った場合、後々に待ち受けると予測される報復|行為《こうい》と天秤《てんびん》にかけて軽い方に従った。

教室の後ろ側から目立たないようにマユの席に向かう。そして肩《かた》を軽く揺《ゆ》すった。こんな行為に及《およ》ぶのは初回なので、周囲の注目が幾《いく》らかは集まってしまう。

マユはうゆうゆと何か口ごもりながら、寝《ね》ぼけ眼《まなこ》で顔を上げる。そして涎《よだれ》を啜《すす》りながら、僕の存在を認識《にんしき》した。

「……みーくん?」

「うん、かえろ、う?」「とあー」

気の抜《ぬ》けるかけ声をあげ、マユが飛びかかってきた。マユを身体《からだ》全体で何とか支えて、マユと僕がちゅーをした。

とてもびっくりしました、感嘆符《かんたんふ》。

「…………………………」

教室という空間から音が離脱《りだつ》した。音は、自身の内にだけ木霊《こだま》する。筋肉の収縮、骨の軋《きし》み、関節の擦《こす》れ。心臓の鼓動《こどう》。そしてマユの舌が僕の口内を這《は》いずり、唾液《だえき》をかき集めるように蠢《うごめ》く音。舌の裏側や歯の裏まで舐《な》め尽《つ》くして、集まった唾液を、卑猥《ひわい》な音を立てて吸い込む。そこらあたりで、目が覚めたらしい。マユがパッと迅速《じんそく》に飛び退《の》く。

「……間違《まちが》えた」

マユが口端《くちはし》から垂《た》れた唾液を指で掬《すく》う。無表情のまま、僕を見上げた。

「…………新しい立場におはようみたいな…………」

級友達との間に、いかんともし難《がた》い壁《かべ》を建設してしまった気がする。何だよ、駅前でもこんなバカップル共は散見されるじゃないか。声高らかにそう主張しようかと思ったけれど、溝《みぞ》まで掘《ほ》られそうだったので胸三寸に留《とど》めた。嘘《うそ》だけど。

マユは機敏《きびん》な動作でプリントの中心を無造作《むぞうさ》に掴《つか》み、一瞥《いちべつ》もせずに鞄《かばん》に放《ほう》り込んだ。そして即座《そくざ》に席を立つ。もはやここは僕らの居場所ではない。元よりこんな空間を居場所にしたくはなかったけど、相手からも拒絶《きょぜつ》される立場になった。もっとも、誘拐《ゆうかい》事件を知る地元生徒だらけの高校にいて友情などという贅沢《ぜいたく》なものを望みはしない。

マユと連れ立って廊下《ろうか》に出た。マユは教室での失敗に対しても、特別の反応は見せない。何事もなかったかのように落ち着き払《はら》い、服装の乱れを正している、

しかし、マユが僕にしか幼稚《ようち》な部分を見せたがらないということは、今までの態度で理解できた。特別|枠《わく》な自分。嬉《うれ》しいかと問われれば、一応|是《ぜ》で。

それはそれとしてマユの鞄。部屋の惨状《さんじょう》から連想し、廊下に出てから中身を見せてもらうことにした。

「いいけど?」と渡《わた》された鞄はフェザー級だった。取り敢《あ》えず開けてみた。鞄の底が変色したプリントの山で形成されている。教科書とノートは神隠《かみかく》しにあったのか見受けられない。というか、寝室《しんしつ》に積みっぱなしだったよな。

底に手を突《つ》っ込み、プリントを全《すべ》て回収する。一年の頃《ころ》から溜《た》め込んでいたのか、入学式の時に配布された用紙もある。丸めて捨てることにした。

「ウェイト」

教室から声がかかったので振《ふ》り向く。金子《ゆねこ》が扉《とびら》にもたれて立っていた。

「何だよクラス委員」

僕の邪険《じゃけん》を含《ふく》む対応にも曖昧《あいまい》に笑って、金子が近寄ってくる。額を指で掻《か》いたり、腰《こし》に手を当てたりと忙《いそが》しい男だ。じゃあ僕らに構うなよ、と勝手に思った。

「いや、おめーじゃなくて御園《みその》さんに」「なんですか?」

名前を呼ばれ、瞬間《しゅんかん》的にマユが反応する。昨日ほど敵対的ではないけど、その分冷ややかな印象が際立っている。

「いやほら、昨日聞こうと思ってたんだけどね。ウチのガッコのいい上こなんかない?」

マユは一瞬《いっしゅん》、流し目で僕を見てから、「別にないです」とだけ回答した。

「あー……ないか。うん、そっか」

ぶつ切りの、もはや会話といえない空疎《くうそ》な言葉の行き来に、金子《かねこ》は情けなく顔を崩《くず》すしかない。垂《た》れ目の視線がマユを透過《とうか》し、突《つ》っ立って事の成り行きを傍観《ぼうかん》している僕に届く。

金子から露骨《ろこつ》に送信されてくる救援《きゅうえん》信号。それにくわえて、さっきのあれ何よ?と僕を問いつめたい下世話な関心が見え隠《かく》れしている。よって、僕もあからさまに気付かないふりをした。じゃあねで済むのに、何故《なぜ》言えないのか。

「あー、あー、特になしってのは困るんだよね、統計みたいなの取ってるからさ」「自由な校風です。風光明媚《ふうこうめいび》です。施設《しせつ》が充実《じゅうじつ》してます。これでいいですか」

「……うん、まあ、いいかな」

聞くんじゃなかった、と苦渋《くじゅう》しているのが伝わってくる金子の表情。けど「後、もう一個だけ聞くとさ」と前置きして、

「君ら、えーと付き合ったりしてたの?」

それが本命の質問だったのか、言い切った時は金子も微妙《びみょう》に達成感を覚えた表情になる。けどマユの対応は、徹底《てってい》的に淡泊《たんぱく》だった。

「それに答えて、何の参考になるんですか?」

「……あー」と、限界が訪《おとず》れようとしている金子に、

「お前ね、女|口説《くど》いてる暇《ひま》があったら、汗《あせ》の塩を小手《こて》に吹《ふ》き出させるぐらい竹刀振《しないふ》れや」

隣《となり》の教室から出てきた生徒が、揶揄《やゆ》するような口調で声をかけた。

生徒会長や剣道部の部長等、肩書《かたが》きが複数ある高校生。まだ幾《いく》つかあるんだけどそれはいいとして、自分語りが大好きな菅原道真《すがわらみらざね》君である。

万能という言葉の似合う、僕と地続きの人種とは思い難《がた》い奴《やつ》だ。

思いもよらない方向から救援者が現れて、金子の顔の強張《こわば》りが弛緩《しかん》する。

けど、しかし。

「別にそんな話じゃありませんから、くだらないことに結びつけないでください」

マユは、冗談《じょうだん》を認識《にんしき》する能力が欠如《けつじょ》しているらしい。空気を読まず、本気で食ってかかった。

生徒会長も面食らい、けど即座《そくざ》に「そりゃ悪かったな」と軽くあしらう。会長は金子に鋭《するど》い流し目を送り、じゃあ何してたんだお前はと言及《げんきゅう》を促《うなが》す。

「パンフのネタ集め。部長が率先《そっせん》してやる仕事じゃないの?」.

「そんなの、僕に会えるよーとか写真付きで書いて円満解決だ」

「あんたね、集客効果って言葉をご存じか?」

呆《あき》れ顔ながらも、金子《かねこ》は友好的な態度で同学年の生徒会長と談話を開始する。

薄《うす》い壁《かべ》が張られた。明快な人間関係の提示で、僕らが入り込むのを予防する。

こちらとしても蚊帳《かや》を張られて、外に佇《たたず》む必要は何処《どこ》にもない。

「帰ろうか」

そう言うと、マユは「うん」と返事をして、僕の手を握《にぎ》った。

階段を下りきっても、下駄《げた》箱まではその手と一緒《いっしょ》だった。

部屋に帰って、マユは「えろいことするぞ」と元気よく宣言した。

で、意気|揚々《ようよう》とソファに飛び乗ったマユは、僕がバッグから着替《きが》えを取り出している間に夢の国へ旅立っていた。俯《うつぶ》せで、そのまま放置したら首の筋を痛めそうだったので、寝室《しんしつ》に運ぶ。小さめの体躯《たいく》を抱《かか》えて、ベッドに寝《ね》かせる。えろいことしてやろうかと盛《さか》る気概《きがい》も湧《わ》かず、布団《ふとん》を被《かぶ》せて、部屋を出た。

「いつ起きるんだろう……」

恥《は》ずかしながら炊飯《すいはん》の技術は所持していない。僕は我慢《がまん》しても、あの二人の食事をどうにかしないと。私服に着替えてから、和室の襖《ふすま》をスライドした。

「あ、おかえりなさい」

挨拶《あいさつ》が返ってきた。ここで、君達の家かよここはなどと、無粋《ぶすい》な受け答えをするのも馬鹿《ばか》らしい。「ただいま」と、礼節に基づいた。

二人は寄り添《そ》って座り、昨日と大差ない景色《けしき》。違《ちが》うのは、膝元《ひざもと》に毛布をかけていること、朝食を載《の》せていた皿があることぐらいだ。

「あの、これ、ありがとうございます」

浩太《こうた》君が頭を垂《た》れ、前髪《まえがみ》を派手に振《ふ》り乱す。毛布を指で摘《つま》み、嬉《うれ》しそうにはにかむ。杏子《あんず》ちゃんは、お友達である壁と向き合っていた。

「あんず、お礼」

兄が妹の服の袖《そで》を引っ張る。妹は、不満そうに目を吊《つ》り上げる。

「こーた、バカじゃないの。こいつはゆーかいはんなんだよ。なんでおれいなんか言わないといけないのよ」

仰《おつしや》るとおりである、至極《しごく》単純かつ真っ当な正論。

「おにいさんはぼくたちを誘拐《ゆうかい》なんかしてないじゃないか」

これもまた正論だけど、こちらについては聞き流すことを良しとは出来ない内容だった。

「いやいや、僕が誘拐したことにしてほしいんだけどね」

その言葉に、二人とも不可解そうな表情を向ける。当然だろう、本来なら両者とも罪を問われるのが常識なのだから。僕は偽善《ぎぜん》的な対応をしているけど、この子達が監禁《かんきん》されていることを黙認《もくにん》している時点で、ただの共犯者である。

「それにお礼はいいんだ。池田《いけだ》さんは朝にちゃんと言ってくれたから」

「っ!」

杏《あんず》子ちゃんの瞼《まぶた》と口がぱくぱくする。同時に開閉とは、無意識|故《ゆえ》に為《な》せる高等技術かも。

「そうなの?」

浩太《こうた》君が顔を覗《のぞ》き込もうとするのを避《さ》けるように、杏子ちゃんは部屋の隅《すみ》に逃避《とうひ》してしまう。自己|嫌悪《けんお》にでも陥《おちい》っているのか、僅《わず》かに頬《ほね》と耳が朱色《しゅいろ》に染まっている。

「お腹《なか》は空いてる、よねやっぱり」

浩太君が正直に頷《うなず》く。恐怖《きょうふ》が軽減されたのか、首|振《ふ》り運動が潤滑《じゅんかつ》になっている。

「もう少し待ってくれるかな。今おねえさんは寝《ね》てるから、ちょっと待って起きなかったら弁当でも買ってくるよ」

味も値段も普通《ふつう》の、片道三十分の距離《きょり》にあるコンビニか、味が悪く値段の高い弁当を販売《はんばい》している近場のスーパーか、どちらへ行くか先程《さきほど》から検討している。

「あのおねえさん、よく寝てますよね」

浩太君が苦笑する。

「この前の日曜日は、土曜日からずっと寝てて、月曜日にやっと起きてきましたから」

……睡眠《すいみん》時間が活動時間に勝《まさ》る生活って、生きてるといえるのかな?

「そりゃ災難《さいなん》だったね。まあ、今週末は大丈夫《だいじょうぶ》だと思うよ、僕がいるから」

「おにいさん、ここに住むんですか?」

「そういうことかな。新参者だけど、今後ともよろしく」

冗談《じょうだん》めかして手を差《さ》し伸《の》べてみる。おずおずと浩太君の手が伸び、手の平を触《ふ》れ合わせる。妙《みょう》に滑《ぬめ》りがあり、生理的に受け付けない触感《しょっかん》だった。

「垢《あか》か……。風呂《ふろ》は、微妙《びみょう》だよなあ。入《はい》らしてはあげたいけど、そこまで自由には出来ないし……」

足|枷《かせ》を外して、それが仇《あだ》となって逃亡《とうぼう》されれば間抜《まぬ》けの極致《きょくち》だし。

けど実際、この子達をどうすればいいのか。算段も、閃《ひらめ》きもない。

どうこの子達を処理して、平穏《へいおん》を迎《むか》えればいいのか。

「あの……」

考えに沈《しず》んでいた僕に、浩太君の控《ひか》えめな声がかかる。

「おにいさんは、おねえさんの友達なんですか?」

「全然|違《ちが》うアルヨロシネ」

中国風日本語が堪能《たんのう》であることを誇示《こじ》しようとしたら、物の見事に失敗した。何事もなく続けた。

「僕はマユに友情を感じたことはないし、多分マユもない。ただ、大切にしたい人っていうだけだよ」

「……よくそんな恥《は》ずかしいこと言えるわね」

ぼそりと杏子《あんず》ちゃんが呟《つぶや》く。世間の感覚では、羞恥溢《しゅうちあふ》れる言葉に分類されるのだろうか。私の英訳とかの方がよっぽど口にするのが憚《はばか》られるけどな。

「だから多分、君達の関係に近いのかな」

「あたしはそんなんじゃないわよ!」

浩太《こうた》君が「なるほど」と納得《なっとく》する瞬間《しゅんかん》を破壊《はかい》し、杏子ちゃんが乱入してきた。浩太君は寂寥《せきりょう》感を含ませながらも苦笑し、「そうだね」と杏子ちゃんに同意する。予想より浩太君がへこんだ為《ため》か、杏子ちゃんはバツが悪そうに俯《うつむ》き、また壁《かべ》と向き合ってしまった。

「あ、いやー……嘘《うそ》だけど。うん、嘘なのだ。僕とマユは既《すで》に熟年《じゅくねん》カップルみたいなものなのだ。君らのような一桁《ひとけた》の年しか生きていない、昆虫《こんちゅう》でいえば土から出たての蝉《せみ》のような二人では及《およ》びもしないスズムシなのだ。けどスズムシの雄《おす》って雌《めす》に喰《く》われるのだ」

責任感に後押しされて場を取り繕《つくろ》むうとしてみた。当然だけど、逆効果だった。浩太君からは心ばかりの笑いを頂戴《ちょうだい》し、杏子ちゃんからは怒気《どき》に満ちた視線を投射された。僕にクラス委員の才はない。何故《なぜ》なら、僕は美化委員だからだ。

「いやはや、何とも。で、君は僕とマユが友達って確認《かくにん》したかったのか?」

「あ、え、あの、まあ……」

「マユのことが好きなの?」

誘拐《ゆうかい》犯に恋か。ストックホルムか。

「ち、違《ちが》います!そんなわけ全然ないです!」

両手と首をぶんぶんと外れそうな勢いで振《ふ》り、躍起《やっき》になって否定の意を示す。怪《あや》しい。じゃあ僕のことが好きなのか。あり得ないけど。

浩太君は耳まで桃色《ももいろ》にして、俯いてしまった。杏子ちゃんの冷ややかな視線をどう思っているのか。浩太君は、「ほんとに、そんなんじゃないです」と言い訳する。

「だって、怖《こわ》いですし」

そこで言葉を句切る。

「好きになるとかは、ちょっと……」

えー僕はー?とか素《す》っ頓狂《とんきょう》に反応してやろうか。

「騒《さわ》ぐのもどうかなって思うし……」

「ん~……騒ぐとな~」

何気なく呟《つぶや》いた浩太君の一言に食いつく。浩太君は少し挙動を戸惑《とまど》わせながらも、二度ほど頷《うなず》く。杏子ちゃんも、それに続いて顎《あご》を引いた。

「なんていうか、夜中にすっごく大きく叫《さけ》んだりしてます、けど……あ、毎日じゃなくて」

「……ふーむ」

顎《あご》に手を当てて悩《なや》むふり。けど考えるまでもなく、それは世間でいう病気オブハートだ。

「PTSDの類《たぐい》だよな……」

先生はそのことを知っているんだろうか。マユは外来の定期検診にも行っていないはずだ。

「寝惚《ねぼ》けていたっていうのが、一番楽な結論なんだけどね……」

しかし、それはあり得ない。夜中に起床《きしょう》して寝惚けるなどという技術をマユは持ち合わせていない。それに寝付きはいいが、寝起きはぐだぐだで叫《さけ》ぶ余裕《よゆう》もない。

「……知らなかったんですか?」

浩太《こうた》君の質問には、意外性が多く伴《ともな》っていた。でも別に意の外になど何もない。なにせ僕は御園《みその》マユのことなど何も知り得ない。それこそ名前とニックネームとペンネームぐらい。言うまでもなく、一つだけ嘘《うそ》だ。

「別に知りたくないからね」

何割が嘘か自分でも判別出来ない、二人は、「はあ」だの「ふうん」だの気の抜《ぬ》けた返事だけだった。

マユの側《そば》へ行こうと腰《こし》を上げる。が、その前に二人を一瞥《いちべつ》する。

頭の旋毛《つむじ》から足の爪先《つまさき》まで眺《なが》めて、思いつきを実行することにした。

「焼け石に水というか、樽一杯《たるいっぱい》の汚水《おすい》にワインを一滴というか……。服|脱《ぬ》いで。洗濯《せんたく》してくるから」

服を着せたまま本人を湯船に入れた方が手間いらずだけど、そうもいかない。二人は瞳孔《どうこう》を開き、何度か瞼《まぶた》を瞬《まばた》かせてから、ようやく僕の提案に反応を示した。

「いいんですか?」

「よくないんですか」

僕が善行を積むことはそんなに疑わしいかこの野郎《やろう》。

「い、いいと思いますけど……」

軽く怯《おび》えさせてしまったらしい。反省。某《ぼう》国際的ランドの中の人みたいに、客に対しては行儀《ぎょうぎ》良く接することを己《おのれ》に課した。

「それじゃ、服を脱いでくれるかな」

柔《やわ》らかい口調で右手を差し出す。浩太君からシャツとズボン、それに恥《は》ずかしげに脱《ぬ》いだ下着を頂戴《ちょうだい》した。それから杏子《あんず》ちゃんに視線を向けると、毛布で身を隠《かく》し、窮屈《きゅうくつ》そうに中で蠢《うごめ》いている。そして、丸まった衣服が載《の》せられた手を毛布の隙間《すきま》から突《つ》き出す。受け取ってから、退室した。

異臭《いしゅう》の源泉たるものを抱《かか》えて脱衣所に到着《とうちゃく》し、洗濯《せんたく》機に投げ込む。水に浸《つ》からせたら、洗剤《せんざい》を入れる前に薄黒《うすぐろ》く変色してしまった。辟易《へきえき》するような汚《よご》れ。仕方なく、服を引き揚《あ》げてその場で手洗いを行い、表面上の汚れを落とした。それから排水《はいすい》し、もう一度服と洗剤もぶち込み、作業を開始してもらった。見届けた後、次の用意をする。

バスルームへ向かった。まず僕の滑《ぬめ》り気《け》を帯びた手を洗浄《せんじょう》する。それから風呂桶《ふろおけ》を用意し、シャワーのコックを捻《ねじ》って温湯をなみなみと注ぐ。その中にタオルを何枚か浸《ひた》して、そのまま部屋へ運んだ。

「はい、これで身体拭《からだふ》いて」

余程想定外だったのか、二人は口をあんぐり開く。やはり僕に善行は似つかわしくないようだ。かといって悪行が出来るほど有能でもない。

「本当に、ありがとうございます」と浩太《こうた》君から立場を忘れていそうなほど感謝される。ふむ。

「至れり尽《つ》くせりだね」

「その通りですね」

いや肯定《こうてい》するなよ。

浩太君も毛布に入り込み、杏子《あんず》ちゃんの体を拭き始めた。過保護な関係は当然として受け入れられているらしい。タオルが毛布の外に出ると、ヤニの付いた窓を拭いたような黄土色が付着していた。すぐに浩太君はタオルをお湯に浸《つ》けて絞《しば》り、また作業を再開する。その過程は見えないけれど、美術品を磨《みが》くように、隙間《すきま》なく丁寧《ていねい》に妹の肢体《したい》を清掃《せいそう》している兄の姿は伝わってきた。その無償《むしょう》に限りなく近い献身《けんしん》的な態度は、僕に蜜柑《みかん》の皮むきを思い起こさせた。

僕にも妹がいた。この二人みたいに、良好な関係を築くことは不可能だったし、血の繋《つな》がりは半分だけだったけど。ワガママな妹は蜜柑が好きで、一年中、朝昼夜の主食としていた。肌《はだ》が黄ばむぐらいに、毎日|飽《あ》きもせず蜜柑|尽《つ》くし。その蜜柑の皮むきと、白い筋を取るのが僕の仕事だった。感謝の言葉なんて一度として頂戴《ちょうだい》したことはないのに、僕はそれを今|懐《なつ》かしみ、嫌悪《けんお》することはない。多分、嫌《きら》う理由がないからだと思う。妹が好きだったわけじゃないけど。

磨き終えたのか、浩太君が毛布から出る。杏子ちゃんも、首もとまで毛布で覆《おお》いながら、黄ばみの取れた顔だけ外に露出《ろしゅつ》した。そのてるてる坊主《ぼうず》みたいな杏子ちゃんに感想を求めた。

「池田《いけだ》さん、多少は気分とか良くなった?」

杏子ちゃんは、目一杯《いっぱい》不満そうに唇《くちびる》をへの字に曲げながらも、小さく頷《うなず》きを見せる。そしてぽつりと、僕に許しを与《あた》えた。

「……あんずでいい」

「あんず……ああ、呼び方。いいの?」

「…………………………」

二度も言わせるな、と目で意見された。

「分かった、杏子ちゃん」

「ちゃんはいらない!」

マユと真逆な台詞《せりふ》に、肩《かた》を竦《すく》める。どうやら、好感度がマイナス2からx軸《じく》y軸共に0地点までは上昇したらしい。果たしてそこから右|斜《なな》め上へ向かう余地は残されているのか。

「乞《こ》うご期待」

「はい?」

いやいや、と兄の方に向かって手を振《ふ》った。そういえば浩太《こうた》君が兄を用いた名称《めいしょう》で呼ばれているのを聞いたことがないな。二人きりだと呼んでいるとか、そんな感じかな。

タオルを裏返し、汚水《おすい》を絞《しぼ》り出してから浩太君が自分の身体《からだ》を拭《ふ》く。杏子《あんず》ちゃんの時とは明らかに異なる雑な手つきで全身の汚《よご》れを大まかに取り、烏《からす》の行水《ぎょうずい》より素早《すばや》く終えてしまった。

「さっぱりしました」

そう言って、柔和《にゆうわ》な顔つきを、更《さら》に破顔させる。

「ああ、ご好評なようでなによりです……」

適当に相づちを打ちながら、浩太君の身体の観察を継続《けいぞく》する。

浩太君の肌《はだ》もまた青白く、けれど一つだけ異なる主張をするものがあった。

それは、本来なら服で隠《かく》される脇《わき》や内股《うちまた》に残る、内出血の痕《あと》。

痣《あざ》が、点々と刻まれていた。

色は変色し、カビのようになっている。

「……じゃあ、おべべが乾《かわ》いたら持ってくるから」

桶《おけ》をひったくるように抱《かか》えて、席を立つ。二人は不思議そうに首を傾《かし》げたけど、それを無視してそそくさと部屋を後仁した。襖《ふすま》を閉め、歩く足を意識しながら床《ゆか》を踏《ふ》み、洗面所に汚水を流してタオルを冷水で洗い、雑巾《ぞうきん》絞りをしてからようやく、ぼやいた。

「なんつうかさ……」

かなり厄介《やっかい》な子達を連れてきたんじゃないか、まーちゃん。

他人の詮索《せんさく》なんて趣味《しゅみ》じゃないけど、こういった些細《ささい》な見聞の積み重ねによって深入りする可能性の高まりは否定出来ない。それは危《あや》うい。僕はこれでも人情《にんじよう》派。ホントはどちらかというと刃傷《にんじょう》派。どっちも嘘《うそ》だけど。

「マユに付けられた傷《きず》、じゃないと思うけど……」

昨夜の一件からして、好きだからとか反吐《へど》の臭《にお》いがする理由で彼女の無罪をごり押しすることは難しい。けど、しかしだ。あのマユが理性的に暴力を振《ふ》るうとも、考え辛《づら》い。人目に付かない位置を狙《ねら》っての打撃《だげき》など、かしこさ十九のマユでは実践《じっせん》すると思い難《がた》い。彼女なら、例えば杏子ちゃんが徹底《てってい》的な反抗《はんこう》意志を見せれば、即座《そくざ》に足を翻《ひるがえ》し、横っ面《つら》に蹴《け》りを一閃《いっせん》しているだろう。

「……ほんと、意味不明な誘拐《ゆうかい》だよ」

誘拐犯本人に至っては、既《すで》に興味の対象が僕にしかなさそうだ。そもそもマユは何故《なぜ》あの子達を誘拐したか、そうそう、それだよ。マユが目覚めた時まで覚えていたら独占《どくせん》取材しよう。別に是《ぜ》が非でも知りたい事柄《ことがら》じゃないけど、一応。

洗濯《せんたく》機の稼働《かどう》音に耳を傾《かたむ》けながら、暫《しばら》く天井を見て過ごした。人の顔のように見える染みとかはない。清潔で潔白で味気ない景色《けしき》しかないけれど、脳味噌《のうみそ》を駆動《くどう》させるには都合がいい。御園《みその》マユの寝顔《ねがお》を思い浮かべる。

一切《いっさい》の表情をなくした彫像《ちょうぞう》の面。

御園マユの寝姿《ねずがた》を思い浮かべる。

呼吸も停止させたように、夢中に身を委《ゆだ》ねる姿。

そんな静寂《せいじゃく》に満ちた彼女が叫《さけ》び出すなんて突拍子《とっぴょうし》もないことを、

三日後、目《ま》の当《あ》たりにすることになった。

それは言語化出来ない音質だった。

獣《けもの》の炮吼《ほうこう》とは異なる、切り裂《さ》くように鋭利《えいり》な絶叫《ぜっきょう》。

それは部屋の輪郭《りんかく》の歪《ゆが》みを感じ取れるほどの手応《てごた》えがあった。

「マユ?おい、マユ!」

深夜テレビの通販紹介《つうはんしょうかい》を放置して、リビングから寝室《しんしつ》に駆《か》け、電灯《でんとう》を点《つ》ける。そして、横になった姿勢のまま奇声《きせい》をあげて、目に混濁《こんだく》を浮かばせるマユの肩《かた》を揺《ゆ》さぶった。

「いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい……」

延々《えんえん》と、怨々《えんえん》と呪誼《じゅそ》を口ずさむ。マユの身体《からだ》を起き上がらせると、それに呼応したように頭を抱《かか》え、頭皮を掻《か》きむしり始めた。

「おい、止めなって!」

「いたい、頭がいたいぃぃぃぃぃ!」

両方の意味で痛そうだなおい!

血走った目で中空を睨《にら》み、食いしばった歯から白泡《しらあわ》を吐《は》き出す。

骨と筋と血管が浮かび上がる細腕《さいぼう》が僕の手を振《ふ》りほどこうとする。髪《かみ》を振り乱し、狂乱《きょうらん》的な動作で暴れる。マユの手が僕の頬《ほお》に当たり、そのまま爪《つめ》で力任せに引き裂《さ》かれた。サッと熱の亀裂《きれつ》が走る。ミミズ腫《ば》れどころか出血を促《うなが》しているらしい。

「いたいいたいいたいぃぃぃぃ!」

「分かった、分かったから!落ち着いて!」

僕の声など届きはしない。ただその存在を鬱陶《うっとう》しがっているだけ。

それが僕と彼女の関係の本質であると、何処《どこ》かで肯定《こうてい》していた。

今度は眼球の周囲に爪《つめ》を立て、自傷|行為《こうい》に走ろうとする。同年代の人間を凌駕《りょうが》する力で顔面を引き裂こうとするのを、何とか押さえ込もうと手首を掴《つか》み、握《にぎ》り潰《つぶ》すほど力を込める。へし折ってもこの際構わないと考えたけど、そこに至ることはなかった。

「う、ううううううううううううううう」

マユの身体《からだ》が、突如《とつじょ》折れた。身体は相も変わらず強張《こわば》っていたけど、それは内から溢《あふ》れる何かを押さえる為《ため》に向いていた。唸《うな》り、発汗《はっかん》を全身から促《うなが》す。

「マユ?」

マユの手を、半ば無意識に手放した。

そしてそれを引き金としたように、

その場で嘔吐《おうと》した。

四肢《しし》を引きつらせ、醜悪《しゅうあく》な音と共に胃液と中身をベッドに撒《ま》き散らす。僕の足や膝《ひざ》にも降りかかり、酸の効《き》いた臭《にお》いが部屋に広まってゆく。涙《なみだ》を流しながら吐《は》き統けるマユの背中を撫《な》でることもせず、ただ呆然《あぜん》と事の成り行きを眺《なが》めていた。

何度もむせ返り、一旦《いったん》停止してから嘔吐を再開させる。鼻からも流れて、息苦しそうに白目を剥《む》きながら、それでも吐き尽《つ》くすように前傾《ぜんけい》姿勢を崩《くず》さなかった。

マユはそのまま顔を上げず、胃液の染み込んだシーツに顔を伏《ふ》せた。僕はそこでようやく、マユの身体を起こし、衰弱《すいじゃく》した顔を軽く拭《ふ》いてから、そのまま抱《だ》き寄せた。

「大丈夫《だいじょうぶ》だから」

肩《かた》で息をするマユに、意味のない言葉をかけた。

「ここには、僕とまーちゃんしかいないから。まーちゃんを苛《いじ》める人達はやって来ない。ずっとずっと訪《おとず》れない。だから、大丈夫」

背中をさすると、またマユは少し嘔吐した。首筋にかかる生|温《ぬる》い液体に鳥肌《とりはだ》が立つ。けど不快とは感じないし、離《はな》す気も起きない。

今度はマユが、僕の手首を掴《つか》んだ。

手入れのされていない爪《つめ》が血管に刺《さ》さり、そのまま動脈を突《つ》き破るのかと思った。

「やめてよ」

マユは誰《だれ》かにそう言った。心当たりは、何人かいた。

マユが見ていたもの。

マユが感じていたもの。

それはきっと、僕も共有している。

一時間はその状態を維持《いじ》した。マユは、震《ふる》えに苛《さいな》まれながら僕の手首を握《にぎ》り続けていた。既《すで》に手は鬱血《うっけつ》し、壊死《えし》寸前に思えるほど黒色の絵の具を内部から生産している。

それでも、マユに落ち着きが少し戻《もど》ったのなら、何も問題にするべきことはない。

「みーくん、みーくん……」

「大丈夫だから」

マユの額の汗《あせ》を拭《ふ》き、何百回と繰《く》り返した薄《うす》い台詞《せりふ》がまた口をついて出た。

「ほっぺ、傷。どうしたの。血が出てる。痛いよ」

カタコトっぽい口調てひり痛い頬《ほお》を指摘《してき》してくる。

「ああこれはね、さっき木の枝で引っかけたんだ」

「あ、ああそう、そうなんだ。痛いよ」

傷に指先で触《ふ》れてくる。取り敢《あ》えずこの話題は殺して、次に進むことにした。

「そんなことよりまーちゃん、お医者さんから貰《もら》った薬はある?」

意図的に、子供に言い聞かせる文体で話す。マユは何度も小刻みに首を横に振《ふ》る。

「お医者さんのところにどうして行かないの?」

「だ、だってだって、あいつ嫌《きら》い。わたしに嘘《うそ》ばっかり言うから嫌い」

つまり僕も嫌いなんだなまーちゃん。まあそれはどうでもいい、仕方ないから僕が常備していた薬を飲ませよう。

「今から薬を持ってくるからここで待って……」

「や、やだやだやだ。わたしも行くみーくんと行く一緒《いっしょ》に行く」

僕の腰《こし》に、縋《すが》るようにしがみついてくる。頭を一撫《ひとな》でして、それを受け入れた。

マユを抱《かか》えて、ベッドから下りる。子供な手を握《にぎ》り、大丈夫《だいじょうぶ》と何度も言い聞かせて落ち着かせる。笑顔《えがお》を作る練習をしておくべきだったと、少しだけ後悔《こうかい》した。

リビングに向かい、置いてある僕のバッグのポケットから、薬剤の入った紙袋《かみぶくろ》を取り出す。それを口でくわえ、早足で台所へ入った。不安げなマユを自前の足で立たせ、棚《たな》からガラスのコップを取って水を汲む。

「はい、これを飲むと気分が良くなるから」

別にいけないお薬ではない。袋から錠剤《じょうざい》を二つ取り、マユの頼《たよ》りない手の平に載《の》せる。落ち着きなく視線が動くマユに、コップを渡《わた》そうとすると、

「あっ」

マユの肩《かた》が顕著《けんちょ》に反応し、指がコップを弾《はじ》いた。宙を彷裡《さまよ》い、椅子《いす》に引っかかりながら床《ゆか》へ落下する。硝子《がらす》の筒《つつ》は鈍《にぶ》い音を断末魔《だんまつま》とし、砕《くぼ》けて大きめの破片《はへん》となった。

「あ、ああ、あ、ごめんねごめんねごめんね」

マユが誰《だれ》かに必死に許しを請《こ》う。屈《かが》んで、素手《ずで》で破片を回収しよラとしたのでそれを遮《さえぎ》り、軽く抱擁《ほうよう》して背中をさする。

「いいから、ね。誰もまーちゃんを怒《おこ》らないから」

零《こぼ》れた水が足の指先に染みる。破片を踏《ふ》まないようにと、そのまま少し離《はな》れ、脆《もろ》そうなマユの肩《かた》を優《やさ》しく叩《たた》く。床《ゆか》に転がる薬を放置し、新しい薬を取り出してマユの手に握《にぎ》らせる。それからまた、次のコップを取って水を汲み直した。

「薬、口に入れて」

マユの手を導き、肉付きの薄《うすく》い唇《ちびる》を開かせ、錠剤《じょうざい》を赤白い舌の上に置いた。そして今度は、マユの手の甲《こう》に僕の手も添《そ》えて、ゆっくリコップを傾《かたむ》ける。微細《びさい》に揺《ゆ》れる唇にコップが口づけられ、水が口に流し込まれる。音を立てて嚥下《えんか》し、それを見届けてからコップを離《はな》した。

「ん、えらいえらい」

頭を緩《ゆる》く撫《な》でる。マユが僕の胴体に付着し、顔を胸に埋《うず》めた。

流しに水を捨て去り、コップを置く。それからマユを引きずって移動し、3LDKのLにあるソファでマユをあやす。

「テレビでも見ようか。まーちゃんが眠《ねむ》くなるまで、僕も起きてるよ」

ブラウン管を眺《なが》めると、玉葱《たまねぎ》スライサーの紹介《しょうかい》はとっくに終了し、今度は金真珠《きんしんじゅ》の販売を大々的に行っていた。

「みーくん、みーくん」

脳天気成分が微塵《みじん》もない、必死な呼びかけ。無言ながら、髪《かみ》を撫でてそれに応《こた》える。

「みーくんは、わたしのこと苛《いじ》めないよね」

「苛めないよ。まーちゃんの味方だから」

「そうだよね、みーくんは味方。みーくんは味方……」

譫言《うわごと》のように繰《く》り返す。自身に刷《す》り込むような行動に、口は挟《はさ》まない。

「みーくんはわたしを助けてくれる。幼稚園《ようちえん》の時も蜂《はち》から助けてくれた。小学校の時も嫌《いや》な先生から助けてくれた。いつだって一緒《いっしょ》にいてわたしを助けてくれた。ずっとずっとわたしの味方。だからみーくんはわたしを苛めない一緒にいてくれる一緒に一生裏切らない嘘《うそ》つかない」

「……よしよし」

お茶を濁《にご》す態度を取った。だって、最後のは、ねえ。

「明日は、お医者さんのところに行こう」

ふるふると、小動物のように首を振《ふ》って拒否《きょひ》した。チワワっぽくて、美人はどんな状況《じょうきょう》でも良い役者になるなあと、不謹慎《ふぃきんしん》にも和《なご》む。

「大丈夫《だいじょうぶ》だよ、僕も一緒に行くから。それでその後はデートしよう」

注射を嫌がる子供の説得みたいだな。マユは、一つの単語を抽出《ちやうしゅつ》して反芻《はんすう》する。

「でーと」

「そう、デート。僕と遊ぶのは嫌《きら》い?」

また小動物化して否定した。先程《さきほど》より微震《びしん》になっていた。

「みーくんと、遊びたい」

「うん。まーちゃんが行きたいところへ行って遊ぼう」

近場には公園ぐらいしかないけど。否応《いやおう》なしに選択肢《せんたくし》が狭《せま》いのが、田舎《いなか》の嫌な持ち味だ。

「だから、お医者さんに行くよね」

だからとか、全く因果関係が繋《つな》がっていないけれど、マユはがくがくと首を縦に振った。ダボハゼ級に釣《つ》り針《ばり》に引っかかってくれる。

「うん我慢《がまん》する。嘘《うそ》つきに会う。みーくんも一緒《いっしょ》に来てくれるんだよね」

「勿論《もちろん》」と力強く肯定《こうてい》する。そこで落ち着いたのか、マユは水を与《あた》えすぎた植物のようにへたり込み、ソファに寝転《ねころ》んだ。

そして、三十分で一時間分の脂肪《しぼう》燃焼効果がある歩行運動器具を無言で観賞して、やがて瞼《まぶた》を下ろした。寝息を漏《も》らすこともなく、電源を切ったように活動を停止させる。

テレビの電源も切る。そのまま、マユをソファに横たわらせて、寝室《しんしつ》に行く。汚《よご》れたシーツを引《ひ》っ剥《ぱ》がし、最初にこの部屋で見たように丸める。それから僕の使っている、嘔吐物《おうとぶつ》の降りかかっていない布団《ふとん》を持って、暗闇《くらやみ》に部屋を譲《ゆず》ってからマユのもとへ戻《もど》る。マユに布団を被《かぶ》せてから、少しだけ寝顔を眺《なが》めた後、いつも通りに就寝の挨拶《あいさつ》をした。

「おやすみ」

いつも通り、マユからの返事はない。部屋の灯《あか》りを落とした。

……今更《いまさら》言うまでもない話だが、僕とマユは寝床《ねどこ》を共同使用している。当然、そこでは睡眠行為《すいみんこうい》にしか及《およ》んでいない。実に健全、R指定とは無縁な間柄《あいだがら》だ。

身震《みぶる》いする部屋の空気。床の冷たさは、冬の影《かげ》を踏《ふ》んだようだった。早々の退散を決め込み、何処《どこ》で寝ようかと思案しながら部屋を後にしようとして、

「あのー」

浩太《こうた》君の控《ひか》えめな声が襖越《ふすまご》しに配信されてきた。方向転換《てんかん》し、襖を開いて畳《たたみ》に足を付ける。低い天井《てんじょう》から垂《た》れ下がる紐《ひも》を引っ張り、蛍光灯《けいこうとう》を起床《きしょう》させた。

二人は毛布にくるまって座っていた。ただ、表情は眠《ねむ》たげで、目をしきりに擦《こす》っている。

「その汚《よご》れ、どうしたんですか?」

「二日|酔《よ》いのままメリーゴーランドで夜明かしさ。それより、起こしちゃった?」

「あ、へーきです、こーいうの慣れてますから」

「慣れてる?」

微妙《びみょう》な発言だった。二人にとっては失言だったのか、杏子《あんず》ちゃんは「ばかこーた」とのんびり呟《つぶや》き、脇《わき》の肉を抓《つね》る。浩太君は眉根《まゆね》を寄せながらもへらへら笑って追及《ついきゅう》から逃《のが》れようとした。まただ。また何かが積み重なっていくような錯覚《さっかく》に囚《とら》われる。というかもう十中八九の確率で、この子達に降りかかっていた災厄《さいやく》、厄災でもいい、それが見え始めて、見終え始めたと確信している。いくら詮索嫌《せんさくぎら》いの僕が相手でも、そこまで前振りしないでいただきたいのだが。

話題を逸《そ》らさねば。僅《わず》かな方向修正から、ズレを生じさせねば。

「しかしあれだね、あれだけ騒《さわ》いでよく立ち退《の》き勧告されない……」

ピン、ときた。

頭に電球を装着して閃《ひらめ》きを表したいぐらいだ。

「おにいさん?」

違和《いわ》感にようやく気付いた。自身の経験とは噛《か》み合わないから、目前に晒《さら》されて尚《なお》正体を看破出来なかった。それは状況《じょうきょう》の差異があったからこそ、僕らに施《ほどこ》されなかった処置だ。

「なんでだ?」

主語のない問いかけに、浩太《こうた》君は怪訴《けげん》な表情をした。杏子《あんず》ちゃんは特に反応なし。

簡単なことだ。この子達は、僕と会話している。つまり、口が塞《ふさ》がれていない。マユの狂騒《きょうそう》が苦情や問題になってないとするなら、マンションの防音は完壁《かんぺき》ということなのか。だけど更《さら》に、この子達の足は不自由、手は自由気まま。壁《かべ》を叩《たた》いて金切り声あげて、全身全霊で騒《さわ》ぎ続ければ、流石《さすが》に隣室《りんしつ》にまで響《ひび》くはずだ。それで室内に捜査《そうさ》が及《およ》べば、足枷《あしかせ》が逆に動かぬ証拠《しょうこ》となって、手錠《てじょう》のアクセサリが僕らに贈与《ぞうよ》されるだろう。

「うわ、穴だらけ」

何て手際《てぎわ》と対策の雑な犯行なんだ。先程《さきほど》のマユじゃないけど、頭を掻《か》きむしりたくなった。僕も現実を見たくなーいー。

「あのさ、君達……」

そこでまた言葉を途絶《とだ》えさせる。あのさ君達、何で大人しくこの部屋にいるの。それを尋《たず》ねた瞬間《しゅんかん》、流しそうめんのような勢いで、望ましくない何かが始まる気がした。

挙動|不審《ふしん》な僕に、浩太君は目を丸くしている。僕の言葉を律儀《りちぎ》に待っているのかも知れない。一方杏子ちゃんは、普段《ふだん》の険しさは消え失せ、寝惚《ねぼ》けた表情。

「ねえ」

杏子ちゃんが、口をむぐむぐと気怠《けだる》そうに蠢《うごめ》かす。

「あの女」

「女じゃなくて、おねえちゃん」

少しだけ語気を強めて改正を促《うなが》した。あの女とはなんだ、礼儀を知れ。あれは僕の女だ。嘘《うそ》だけど。杏子ちゃんは気圧《けお》されたのか、それともただ眠《ねむ》いのか反論せずに訂正《ていせい》した。

「あのおねえちゃん、頭がおかしいんじゃないの?」

実に含《ふく》みのない、真実一路な評価だった。そんなわけねえだろこのジャリガキ、とか異論反論を述べる気は毛頭ない。

「あんず、そんな言い方は駄目《だめ》だよ」

そんな言い方が駄目なだけで、表現の行き着く先には問題ない、と。

「いや、いいけどね。あれでカラオケ大会ですかなんて感想持つ奴《やつ》は、仲間に分類されるだううし。……頭の螺子《ねじ》は足りてるはずなんだけどね」

杏子ちゃんの言葉を肯定《こうてい》する。けれど、僕はマユに対して否定的な姿勢を持っているわけじゃない。マユのそういった要素に、少なからず魅力《みりょく》を覚えているからだ。彼女の精神は喜怒哀楽《きどあいらく》の強弱高低が偏《かたよ》りすぎているけど、だからこそ常人には組み上げられない感性を内包することが可能だ。異質か異彩《いさい》か、判別が難しいのだけれど。

この子達もある程度付き合えば、理解してくれると思う。……いや、それより。

「……足りてるけど、建築に失敗したんだ。横槍《よこやり》を入れられてね」

断りなく人の過去を語る趣味《しゅみ》はないけど。

どうしてか、このまま放置しておく気にはなれず。

他人に、少しだけ昔を晒《さら》した。

「マユの両親は、僕らの目の前で殺されたよ」

感情を込めずに発言した。というか、込められなかった。何を使えばいいのやら。

「その時に、僕とマユの螺子《ねじ》は緩《ゆる》んじゃったのかな。一目で分かる不具合は、マユの方みたいだけどね。……やっぱり、僕もちょっとね」

何故《なぜ》なら、僕はマユの行動を咎《とが》めない。罪悪さえ感じない。

そうであるように、心を眠《ねむ》らせている。

二人の顔色を観察する。浩太《こうた》君は微妙《びみょう》にびくつき、杏子《あんず》ちゃんは無反応。普段着《ふだんぎ》な反応だったので、僕も普通に締《し》めをすることにした。

「と、いうことでだよ。マユのことを悪く言うぐらいなら、先に僕を罵《ののし》ってほしい。いやいや別に倒錯《とうさく》的意味合いはない。ただ、自分の悪口の方がマシだからね、うんそれだけ」

最後は口早に告げ終えた。差恥《しゅうち》に身を捩《よじ》りたかった。何だよ罵ってほしいって。

お話が終わって、質問コーナーを設ける気はなかったけど、微妙に覚醒《かくせい》した杏子ちゃんが素朴《そぼく》な疑問をぶつけてきた。

「なんであのおねえちゃんをそんなに庇《かば》うの?」

好き好き大好き超アレしてるから。嘘《うそ》だけど、とは言い難《づら》いなあ。

「大切だからだよ、あんず」

浩太君が真っ先に反応した。

面倒《めんどう》な方向に飛び火しそうな気配を察し、話題を微妙にすり替《か》えることにした。

「昔ね、今と似たようなことを聞かれた人がいた」

「……?誰《だれ》ですか」

浩太君が問う。特定名詞を使用せずに、それに答えた。

「誰かの母親。子供の身代わりになって殺された人。その人は震《ふる》えながら、それでも迷わずにこう答えたんだ」

一拍《いっぱく》置いて、かつて耳にしたことをそのまま口にした。

「母親だから、って」

二人は眉根《まゆね》を寄せた。眉唾物《まゆつばもの》だとでも思っているのだろうか。

だけどこれは嘘じゃない。

僕は確かに、彼女の母親がそう言ったことを覚えている。

それは数少ない、

したくとも虚偽《きよぎ》に出来ない、想《おも》い出《で》。

そして、それが、

マユを庇《かば》う、僕の最たる理由でもある。

音量全開のヘヴィメタルが扉越《とびらご》しに耳を劈《つんざ》く。

一階の待合室の窓から透視《とうし》するのどかな昼前の景色《けしき》とは相|容《い》れないBGMに顔をしかめているのは僕だけだった。僕しか近辺に人がいないからだ。ただでさえ人口の少ない人里からさらに離《はな》れた、山の麓《ふもと》にある建物は、消毒の匂《にお》いが薄《うす》い。何故《なぜ》ならここは、心の病院だからだ。

ペンキが剥《は》げかけている白|塗《ね》りの扉が開く。派手に扉を閉めて退出したマユは、あからさまに不満を顔に宿していた。マユが僕の隣《となり》の椅子《いす》に倒《たお》れるように座り込む。

「お疲《つか》れ。どうだった?」

普段《ふだん》より声量を上げて話す。意識的にそうしないと、声が別の音に喰《く》われる。

「もう来ない。あんな嘘《うそ》つき、だいっきらいだ」

子供の部分を隠《かく》しもせず、不満を吐《は》き捨てる。今日のマユは僕が洗濯《せんたく》した余所《よそ》行きの服を着て、深くベレー帽《ぼう》を被《かぶ》っている。

「どんな嘘を言われたの」

「知らない。嘘つきの話なんか覚える価値がない」

しかし何故《なぜ》か僕の言葉は覚えている。それが分からない。

座った時に位置がずれた、マユの帽子を修正してから席を立つ。

「じゃ、ちょっと待ってて。次は僕の番だから」

「もの凄《すご》く嫌《いや》」

振《ふ》り上げた足を、駄《だだ》々っ子のように地面へ叩《たた》き付けた。その際にスカートが一瞬《いっしゅん》めくれ、太股《ふともも》の外側に一際《ひときわ》目立つ、長細い傷痕《きずあと》が覗《のぞ》けた。まだ、あんなにご健在でしたか。お懐《なつ》かしゅうござらない。

「デートするんでしょ?こんな所にいる意味ない」

茶色のブーツが連続で床《ゆか》を蹴《け》り、廊下《ろうか》に音を響《ひび》かせる。けれどそれも、場の音楽に消化されて、聞き取りを困難《こんなん》にしていた。

「今日は検診日なんだ。少しだけ我慢《がまん》して、お願い」

拝《おが》むように頼《たの》み込む。祈《いの》りが通じたのか、マユは精|一杯《いっぱい》の不満を顔に宿しながら、それでも不承不承に頷《うなず》く。

「明日もデート」

「おっけー」

「明後日《あさって》もデート」

「学校の理科室や体育館でいいなら」

そんなこんなで、部屋の主でもない少女に入室の許可を取った。

螺子《ねじ》の緩《ゆる》くなった扉《とびら》を開く。その入り口から先、窓際《まどぎわ》の椅子《いす》に座るポニーテイルの女性が目線だけを僕に向けた。

清潔な白衣に、青のミニスカート。スリッパは脱《ぬ》ぎ散らかして、足を遠慮《えんりょ》なく伸《の》ばしている。

「相変わらずだねぇ、あの子」

それが第一声だった。

「子供の頃《ころ》から何一つ変化してない。あーでも、みーくんどこーから、みーくんいるーに変わってたか。全然良い変化じゃないけど」

手に持っていたカルテを机に放《ほう》り出して欠伸《あくび》をする。なんで僕が入ってきたらくつろぎ出すんだろうこの医者。茶飲み友達と間違《まちが》えてないか。

「で、当病院から無理矢理退院してくださった生意気な娘《むすめ》さんを連れて今更《いまさら》何の御用でございましょうね、『みーくん』」

「その呼び名はマユ専用です」

「はいはいバカップル」

目元を擦《こす》り、背もたれを軋《きし》ませながらようやく、僕と向き合った。

坂下恋日《さかしたこいび》先生。三十路《みそじ》を迎《むか》えた精神科医、独身。読書は漫画《まんが》だけな大人。

「それで、どういう心境の変化かしら。御園《みその》に自分のことを明かすなんて」

腕《うで》と足を組み、品定めするように僕を眺《なが》め回す。知的美人に程良《ほどよ》く似合う姿勢だった。裸足《はだし》でなければ。

「質疑応答は、最初の問いだけでいいです?」

「別にいいわよ。どうせ嘘《うそ》しか言わないから」

見|抜《ぬ》かれていた。小学生の時からの付き合いによって、人格|把握《はあく》は完壁《かんぺき》らしい。

「マユが夜中、突然《とつぜん》頭の痛い子になったんです。で、心配ですから先生に診《み》てもらおうと思って連れてきました。それだけです」

「夜中……御園と同棲《どうせい》してるの?」

先生が目を細め、聞き逃《のが》さないといったように詰問《きつもん》してきた。精神科医なら、頭という単語に注目してほしい。

「ただ寝食《しんしょく》を共同の居住区で行っているだけ」「を同棲というわね」

「地球という限られた環境《かんきょう》下の、更《さら》に国土の手狭《てぜま》な地域である日本の一国民として蜜柑《みかん》もかくやな倹約《けんやく》節約精神を発揮して空間を有効に共同活用する」「為《ため》に同棲しているわけね、はいはい」

「……なんか怒《おこ》ってます?」

「とってもね」

音楽に合わせてこめかみを指先で叩《たた》き、足の先で軽快に床《ゆか》を踏《ふ》む。

「嘘《うそ》だけど」

芸風を真似《まね》された。しかしそんな憤《いきどお》りに溢《あふ》れる声では、その嘘自体が嘘くさかった。先生は暫《しばら》く無言で目を閉じ、最後にやれやれと首を振《ふ》って葛藤《かっとう》を終えた。

「予測はしてた。君と御園《みその》が並んで現れたもの」

「おしどり夫婦に見えちゃいましたか」

「アホか君」と侮蔑《ぶべつ》的な視線を向けられた。そして、額を指で押さえて溜《た》め息《いき》。

「飼《か》い犬を泥棒猫《どろぼうね》に寝《ね》取られた気分ね」

「どんな怒濤《どとう》の展開ですかそれ」

「初めて会った頃《ころ》は先生っていうより、せんせぇって感じでちょこまか懐《なつ》いてたのに……」

それから嘆《なげ》くように、「思春期の子供を持つ親の気持ちかな、これ」と愚痴《ぐち》混じりに呟《つぶや》く。

「まあ、君の私生活はアタシの管轄《かんかつ》じゃないから何も言えない。爛《ただ》れて腐《くさ》り落ちてもね。けど、御園《みその》の精神状態に有効かは、首を捻《ひね》らざるを得ない」

脈絡《みゃくらく》もなく正常に復旧した。

そして本当に首を捻った。べきべきと小気味良い音がした。

「あの子に君がいるってのは、良いこと尽《づ》くめとはまかり間違《まちが》っても思い難《がた》いわね。肥料なんて投与《とうよ》しすぎればただの毒だし」

「けど、らぶで満たされてます。らぶは何より尊い精神じゃないですか」

「ダウト」

「正解」

心にさえ思ってません。そんなこと。

指先で机をノックしながら、先生は呆《あき》れと苦みを混ぜた表情になる。

「嘘をつくことが癖《くせ》になってるわね、完全に。慎《つつし》みなさい」

「先生、人に嘘をつくなと言うのは、サッカー選手に物を足蹴《あしげ》にするな、登山家に山は危険だから登るなと言うようなものだと思いませんか」

「実にその通りと肯定《こうてい》してあげる。けどそれは君に適用不可。サッカー野郎や山マニアと君には小さな差異があるのよ。サッカー選手は蹴る物を選んでる。ボールを基本として、後は精々人間と自販機ぐらい。登山家だって.ご馳走《ちそう》の山には登頂を試みないでしょ。つまり節度がある。君との違《ちが》いはそれ。人生|全《すべ》てを嘘で押し通したい君は標準の人間に対する論理を用いることは出来ないの」

さらりと、君は人間じゃないと言われた。侮辱《ぶじょく》だろうか、これは。微妙《びみょう》なラインだ。

それについては後々一人で論議するとして、話を回帰させることにした。

「それで、マユのことなんですけど」

「腰《こし》が悪くなってた。あんまり無茶な体位は取らせないように」

「なに出鱈目《でたらめ》言って揺《ゆ》さぶりかけてるんですか、まだ人前でキスする程度の仲ですよ僕ら」

「そっちの方が善良な市民にとっては公害なんだけどねえ」

したり顔で揶揄《やゆ》される。それに対し僕は話題の路線を修正しようと、語気を強めた。

「マユの精神について尋《たず》ねたいんですよ精神科医の坂下《さかした》先生」

先生はジト目で僕を睨《ね》め付け、冷めた口上を切り出した。

「人類皆|嘘《みなうそ》つき。特にアタシは別格。みーくんだけが真実」

昔と代わり映えのない文字の群れを吐《は》き出し、諦《あきら》めを語った。

「あの子の治療《ちりょう》はアタシには無理。薬は出すから、毎日服用させなさい。後御園《みその》を寝《ね》かせる時は電灯《でんとう》を点《つ》けたままにすること。それで多分、突発《とっぱつ》的に騒《さわ》ぐことはなくなるから」

先生が語った対処法で、悟《さと》るものがあった。

マユの騒乱《そうらん》は突発的だ。けど、昼間、少なくとも学校では発生しない。

夜聞限定なのはきっと、暗闇《くらやみ》という環境《かんきょう》にトラウマがあるからだろう。

なるほどね、身に覚えがある。

「自分の傷痕《きずあと》を意識していないあの子は、普通《ふつう》に灯《あか》りを落として眠《ねむ》るからそんなことが起きる。薬も二回しか渡《わた》してないし、果たして何年前から苦しんでるのかしらね」

他人事の話し方だった。まあ、口を開くたびに嘘つき黙《だま》れと言われ続ければ、良い感情を維持《いじ》することなんて不可能だろう。

けれど。

「だからって、無理とか言われても……。他《ほか》の先生なら出来るってわけじゃ、ないでしょう」

先生は唇《くちびる》の端《はし》を吊《つ》り上げ、笑顔《えがお》みたいな表情になる。決して笑ってはいない。

「君はアタシをどう評価してるのかな、一度|尋問《じんもん》してみたいよ。それはいいとして、御園の治療か……ねえ、治療ってなにかな」

先生が尋《たず》ね返してきた。それも、教師的な問いかけではなく、学校の級友に、ふと思った素朴《そぼく》な疑問を口にする口調で。

「何って、療法を用いて傷を治癒《ちゆ》させるってことじゃないんですか?」

「そうね、それで百点解答」

その割に溜《た》め息《いき》をつかれた。満点とは言っていないから、二百点が上限というオチかな。

「傷を治せばいいのよね」

「そうですけど」

「その怪我《けが》に処置を施《ほどこ》す刺激《しげき》で命を失うような患者《かんじゃ》でも、傷を塞《ふさ》げぜ治療、かしら」

「……いや、それは違《ちが》うと思いますけど」

僕の書葉に反応せず、考え込む姿勢に入ってしまった。指先が、組んだ足の膝《ひざ》を叩《たた》き、反対の腕《うで》で頬杖《ほおづえ》を突《つ》く。指先や足で何処《どこ》かを叩くのは、先生の癖《くせ》だ。

僕の存在を意識から排除《はいじょ》し、物思いに耽《ふけ》る。まあ、今日は僕を患者として扱《あつか》う必要はないし、文句はない。

「……えと、それじゃあ、今日はこれで」

会釈《えしゃく》して、席を立とうとする。そこで先生が呼び止めた。

「一つ世聞話してあげる」

妙《みょう》な前置きだった。姿勢はそのままで、物憂《ものう》げな視線を僕に向けてくる。半分浮いた尻《しり》を椅子《いす》に静める。

気負わない調子で、先生が話を切り出した。

「君ら、殺人犯じゃないかって疑われてるわよ」

何かを噴《ふ》き出しそうになったけど、平静を保って目尻《めじり》の震《ふる》えも押さえつけた。

「何だか最近、ここら辺で殺人事件が起きてるらしいの」

テレビを鏡代わりとし、新聞紙をゴキブリ退治のツールと信じて疑わない非文明的な社会人は、さも極秘情報を漏《も》らすように楽しげな様子だ。おっくれてるーとか言ってやればいいのか。

「君も危ない物持ってる人に話しかけられたら注意しなさい」

「……先生、昔は生徒会長とかやってました?」

「万年美化委員だった」

あれぇ?

……さて、気を取り直して。

「それで、どちら様が疑いを?」

「そんなもの、探偵《たんてい》か警察ぐらいしかいないでしょ。人と仲良く談笑しながらあいつは殺人犯だなんて考えてるサイコな連中は」

「それもそうですね。で、どっちですかそんな嘘八百《うそはっぴゃく》を狂信《きょうしん》してる方は」

「安楽椅子警察」

それはただの職務|怠慢《たいまん》だ。

「警察と仲良しだったんですか」

以前、速度|違反《いはん》で捕《つか》まった時は、罵倒《ばとう》の限りを尽《つ》くしていたのに。

「このサイコマインドメトラーアサシンに愚問《ぐもん》を投げかけないでほしいね。ツーカーよ」

この嘘つきは何を言っているんだろう。

そのまま先生は、何事もなく話題の続きを接合する。

「高校の同級生がスケバンじゃない女|刑事《デカ》やってるの。そいつに色々|尋《たず》ねられた。変な奴《やつ》でね、小学校の文集で探偵になりたいとか夢見がちなことを書いてたよ」

懐古《かいこ》に浸《ひた》ることなく、淡々《たんたん》と言う。本人としては、高校時代など昨日の晩飯ぐらい身近な記憶《きおく》にあるのかも知れない.年齢《ねんれい》という要素については意見|抜《ぬ》きで。

「あくまで個人的に疑ってると言ってたけどね。君達は容疑者候補に挙げられてる」

容疑者候補、ねえ。意味|被《かぶ》ってる気がする。

やれやれ、と余裕《よゆう》ぶってみた。

「僕らみたいな善良で矮小《わいしょう》な小市民を疑うなんて、余程捜査《よほどそうさ》が行き詰《づ》まってるんですね」

「君が疑われる理由なんて幾《いく》らでもあるよ。過去に犯罪に巻き込まれた人物は、自身が影響《えいきょう》で行う可能性が増加する。精神科の先生と仲良しだ。人望がない。飼育《しいく》委員だからだ。一つ嘘《うそ》だけど」

本当に一つなのかそれ。というか、どうして真似《まね》出来るんだ。

「まあ、アタシ個人の見解では、御園《みその》は怪《あや》しまれても仕方ないかな」

「あんなに純粋《じゅんすい》で考えなしで幼稚《ようち》で逃《に》げ足が遅《おそ》いマユの何処《どこ》を疑うというんですか」

「貶《おとし》めることで擁護《ようご》してどうするの。それで今度、君らと個人的に話がしてみたいんだって」

「取調室でなんてオチじゃないですよね」

「留置場だったりして」

笑えない冗談《じょうだん》は、冗句《じょうく》じゃなくて事実を述べているだけだと思う。

「こっちとしては私的公的関係なく、お会いしたくないですね」

微妙《びみょう》に嘘だけど。

「それは君の自由だから、勿論《もちろん》断ればいいけど。なかなか面白い奴《やつ》だよ、少しだけ君に似てる」

そう言って、穏《おだ》やかに笑《え》む。

少しでも僕に似ている人か。

……きっと性悪《しょうわる》なんだろうなあ。

「ただ違《ちが》うのは、君は単なる嘘つきだけど、あいつは嘘と真実を編み込んで喋《しゃべ》ることかな」

「ほほー」

賭《か》けてもいい、性悪だ。

最高潮のノイズとシャウトに乗じて椅子《いす》から腰《こし》を上げた。そこで、ふと感じた疑問を、オーディオを指さしながらぶつけてみた。

「苦情とかこないんですか、それ」

先生は「べつにー」と軽い否定をする。

「デスメタルお婆《ばあ》さんとかに大好評」

大好評なのはいいけど、デスが婆さんに付属するのは些《いささ》か問題な気もする。

「患者《かんじゃ》さんにリクエストされた曲をかけてるから、意外と好評なのよ。注文がない時はかけないか、アタシの趣味《しゅみ》に合わせるけど」

「そっすか。僕は聞かれたことないんですけどね、一度も。そろそろお暇《いとま》します。これからデートに行くんで」

「ふーん、いいねえ。アタシの休日と取り替《か》えない?」

「嫌《いや》です」

断固|拒否《きよひ》した。一日中、漫画喫茶《まんがきっさ》に入《い》り浸《びた》る生活は僕に馴染《なじ》まない。

普段《ふだん》より大きく頭を下げ、素早《すばや》く戻《もど》す。足を引っかけそうになりながら振《ふ》り返り、早足で入りロへ向かう。そして扉《とびら》に手をかけ、歩を休める。

「先生」

「んー?」

「僕は、人を殺したことがあるんです」

暫《しばら》く返事は訪《おとず》れなかった。声が届かなかったかも知れない。それならそれで大変結構。ドアノブを捻《ひね》り、扉を押した。

そして、半分|廊下《ろうか》に出たあたりで、

「ダウト、とだけ言っておく」

正解、とは言わずに部屋を後にした。

廊下の待合い椅子《いす》には、顔を酸欠状態の青色にして尚《なお》、診療《しんりょう》室から流れてくる音楽を鼻歌で演奏するデスメタル婆《ばあ》さんが鎮座《ちんざ》していた。亡霊《ぼうれい》と自己|紹介《しょうかい》されても受け入れてしまえそうだ。

そして、それら全《すべ》てを意に介《かい》さず、椅子の上で器用に丸まって眠《ねむ》るマユ。

「…………………………」

薬を受け取ってから、マユを背負ってマンションへ帰宅した。

そして彼女の傍《かたわ》らで、目覚めた時の為《ため》の嘘を思案し続けた。

第九人 『憂慮殺人』

殺人、如果要用平常的事情來説明的話和遠足很相似。也可以說是旅行。とにかく、実行に移す前の、準備や予定をする時の方が心は揺《ゆ》れる。良かれ悪《わる》かれだ。だからこそ僕は事を行う以前、架空《かくう》の存在を用いて夢想する際には、自意識を細部まで行き渡《わた》らせるようにしている。そして実行の時は、ムイシキに身を委《ゆだ》ねている。その方が安定しているからだ。そう、安定。人が反復に近い行動様式を取る以上、それを求めるのは必然とも言える。特に、多大なリスクを伴《ともな》う行動の反復。例えば違法品《いほうひん》の購入《こうにゅう》。例えば万引き。例えば殺人。僕も例外ではない。安定を欲する。その為《ため》に、仲間を得たいと渇望《かつぼう》する。僕は仲間に飢《う》えている。呼吸、瞬《まばた》きの延長線上の殺傷|行為《こうい》が認めあえる仲間を。何年も、探し続けた。この片田舎《かたいなか》の町で。声を高らかに募《つの》ることも出来ず、選別もままならない人の世で。そして、当然ながら、そんな奴《やつ》は現れなかった。罪を問われない状況《じょうきょう》で拳銃《けんじゅう》を渡《わた》されたら憎《にく》い奴を殺すとか、そういう人材は募集していない。目の前に死刑《しけい》台が聳《そび》えようと殺人を厭《いと》わず、或《ある》いはどれだけ憎悪《ぞうお》に滾《たぎ》る仇《かたき》であっても気分次第《しだい》で見|逃《のが》すような、自身の内にある一定のルールを遵守《じゅうんしゅ》する人間。余分な感情を背負い込んだ人間。そんな人間と出会って、話し合い、或いは些細《ささい》なことから殺し合ったり、とにかく交流が生まれることを切望した。だから僕はここにきて、探し方を変更《へんこう》した。殺人を行ってみた。灯《あか》りに群がる蛾《が》のように、同類が引き寄せられることを期待して。結果は、報道機関にネタを提供する役割に成り下がっているのが現状だ。二足歩行の犬や浜辺に打ち上げられた鯨《くじら》と何ら変わりない。畜生《ちくしょう》と蔑《さげす》まれたら甘んじて享受《きょうじゅ》しよう。二足歩行だって実演するし、浜辺で砂のベッドに横たわってやる。しかし悲しいかな、この地域には海がない。川はやたらと多く流れているけど。閑話休題《かんわきゅうだい》。エロ雑誌《ざっし》を立ち読みしている隣《となり》の男がやたらとくすくす笑って気味が悪い。更《さら》に閑話休題。つまり僕は、この非生産的|行為《こうい》が、凄惨《せいさん》な景色《けしき》を背景に他者との繋《つな》がりを生産する成算に賭《か》けているのだ。期限は、どうだろう。行き詰《つ》まっている警察の捜査《そうさ》状況《じょうきょう》からすれば、三分勝負ならまだ一分も消化しきれていない程度に余裕《よゆう》はあると思う。さて、終了《しゅうりょう》までに素敵《すてき》な運命は僕に巡《めぐ》ってくるのだろうか。殺人を終えてからふらふらと訪《おとず》れたコンビニでそんなことを考えながら、立ち読みしていた雑誌を棚《たな》に戻《もど》して、入荷したての弁当類へ足を向けた。

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